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Channel: 私の高橋真梨子論
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■マルタ散歩2

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 スリーマは観光にも便利で、五つ星ホテルからゲストハウス、ホステル、そして短期滞在用アパートまで、山ほどのアコモデーションと、そしてレストラン、カフェ、パブなどの飲食店が揃っています。賑やかなマルタ、海浜リゾート・マルタを満喫できる街だとか。他方で、一歩内陸に入れば昔ながらの街並みが広がり、住宅が密集しているとか。
 スリーマの北にパーチャルビルがあります。マルタ島の北端です。セントジュリアンの近くにあるパーチャビルは、マルタのナイトライフエリアの中心だとか。パーチャビルは、スピノラ湾とセント・ジョージ湾の間にあります。パーチャビルは、一年を通じて、マルタのナイトライフシーンがあり、あらゆるテイストのレジャー、エンターテイメントや食事が楽しめるとか。
 パーチャビルには、最新のクラブDJ音楽、ピアノバー、エレガントなカジノや素晴らしいレストランがあると云います。カジノは、かつて19世紀のマルタ人の貴族の私邸であった、ヴィラ・ドラゴナーラにあります。今も漁師が使っている、絵のように美しいセントジュリアン湾には、ブーゲンビリアで覆われたカフェやレストランが並んでいるそうです。セントジュリアンやパーチャビルの海岸線には、いくつかのマルタで最新の、5つ星ホテルやデラックスなレジャー、住居およびマリーナの複合施設があることは周知のことかも知れません。
 マルタ島の北西端にはブジッパがあります。パーチャルビルから西へ平行に移動して少し北に上がった辺りでしょうか。マルタ北西部のリゾートエリアです。大型ホテルが立ち並び、特に欧米からの観光客で賑わうと云います。ホテル施設やショッピング・レストラン等についてはスリーマ地区とほぼ同じですが、地理的にヴァレッタから遠いため、日本人に人気の観光スポットへ行くには、オプショナルツアーを利用する以外は不便です。リピーターやホテル周辺だけでゆっくり過ごしたいという方にはお勧めだとか。
 ブジッパはセントポール湾に面しています。この湾は「パウロの難船」の逸話の舞台になっています。新約聖書によれば、パウロは難船してマルタ島に辿り着いたことになっています。時の為政者をマルタ最初のキリスト教信者に改宗させたエピソードは前にも触れました。
 マルタ島の北西にゴゾ島があり、その間にコミノ島が位置します。コミノ島には太陽の光を浴びて青く輝くブルーラグーンの海域が広がります。ブルーラグーンというとアイスランドにある人口の露店風呂を思い出しますが、ここは海で、温泉ではありません。
 「Barracuda」で夕食を終えてバスでホテルに帰着したのは、22時過ぎでした。部屋に戻ると小腹が空いたので日本から持参のカップ麺を頂きました。ニュータッチのネギラーメンです。このホテルには湯沸しポットが常備されているので便利です。海外のホテルにはポットを置いていないところも少なくありません。海外旅行用のポットを持参していましたが、今回は活躍の場はないようです。ベッドの脇にモモが手配すると言っていたスリッパが準備されていました。

■5月3日

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 就寝は23時過ぎです。未だ時差ぼけか頻繁に覚醒します。「ヨーロッパのホテルでもスリッパを要求すると出てくるんだ」等とつまらぬことを考えながら、うとうとしていました。
 翌朝は5月3日です。マルタ3日目の朝を迎えました。今日は終日ヴァレッタ観光です。6:36起床です。身支度をしていると昨日同様、7時近くになるとTVからアラートの発報です。また「これがモーニングコール?」と聊か違和感を拭えません。
 ちなみにマルタの朝は「ボンジュ」で始まります。マルタ語で「おはよう」の意味です。フランス語の「ボンジュール」と同じ語源でしょうか。
 朝食に行く途次、エレベーター前でセブンスターご夫婦に出くわしました。このご主人結構なヘビースモーカーのようです。ご一緒して2Fのレストランに向かいます。
 レストランのフロントで部屋番号を告げると女性スタッフが一緒のテーブに案内するので「We‘d like to separate table」とつたない英語で別々のテーブルにしてもらいました。
 今朝は外で食べている客もいます。僕も外か内かと問われたので「Inside」を希望しました。同行のシニア女性二人組が外のテーブルに着いていました。そこに世界130か国を巡ったと豪語する女帝?が加わります。僕の隣席には、お一人様のメデイカル夫人です。彼女は看護士だとか。船橋から参加されていて、聞けば「次は息子とイタリア旅行」とか。
 「最初は嫌がっていた」のだが、「若い女の子が一杯いる」と吹き込むと「じゃあ行く」となったそうです。なかなか親孝行な息子さんです。
 朝食はオレンジジュース+ベーコン+ポテト+スクランブルエッグ+トースト2枚+クロワッサン+苺ジャムを頂きました。女性スタッフにコーヒーを注文するとポットで出て来ました。
 セブンスターご主人が「日本語放送、9ch」と教えてくれました。奥様は「教育TVの番組」と情報提供頂きました。部屋に戻って9chを視聴すると、確かに教育TVをやっていました。
 出かける前にデジカメの日付が合っていないことに気づき修正しました。日付はあっていたのですが、時間が日本時間だったのでマルタ時間に修正です。マルタと日本の時差は7hです。日本のほうが7h進んでいます。
 フラッシュオフの操作手順も確認しました。博物館等でフラッシュ禁止の場所が少なくありません。バッテリーの残量も確認しました。未だ十分なようです。充電器やトランスも持参しているので充電の心配はありません。
 9時にロビーで全員集合を確認してバスでヴァレッタに向かいます。ヴァレッタまでは20分ほどでしょうか。まずは首相官邸の前を抜けてアッパー・バラッカ・ガーデンに向かいます。
 ヴァレッタに向かうバスの車内ではジュンコがヴァレッタ周辺についてガイドします。スリーマは英国統治時代には「お金持ちの町」だったとか。

■ヴァレッタ近郊

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 スリーマ地区には現在、アパートも多いと云いますが、ジュンコ曰く「ハイグレード」だとか。ただ、ジュンコもこの町に住んでいるそうです。スリーマの中心街にはショッピングモールがあり、港には数多のクルーズ船が繋留されています。
 スリーマやヴァレッタなど、マルタの都市部の古い家に良く見られるスタイルの出窓。かつては監視窓の役割もあり、今でもロープを使って荷物を上げ下ろしする光景が見られるとか。海辺から一歩内陸に足を踏み入れれば、そこは古くからの住宅地。狭い道路の両側に、住宅や小商店が並んでいます。かつては、騎士団の宿舎等も点在したのでしょう。
 聖ヨハネ騎士団はヨーロッパ貴族の子弟であることが入団資格でした。騎士団は国別に八つのグループがあり、これを騎士団長が統率していました。オスマントルコ相手のロードス攻防戦に敗れ8年間地中海を彷徨った果てに1530年、スペイン王カルロス五世からマルタを借り受けました。
 ヴィットリオーザはセングレア、コスピークワという街を加えてよくスリーシティーズと呼ばれています。ヴィットリオーザはグランハーバーに面しています。先端には聖アンジェロ砦があります。元々はアラブの見張塔として870年頃に造られたとか。当時は北アフリカを根城とするアラブの海賊が地中海を跋扈していました。マルタの島民も、一刻も早く海賊の来襲を察知するために見張塔を造ったのでしょう。島民が海賊に抗する術はなく、海賊がやって来たら即座に内陸に避難するしかありませんでした。こうした見張塔は今も地中海沿岸各地に遺っていると云います。
 1565年、マルタにもオスマントルコ4万の兵が押し寄せます。これに抗するマルタ側の兵は9000人だったとか。ジュンコの語るところに因れば、「騎士400人+傭兵」だとか。オスマン軍は5月に上陸して、戦は9月に終戦を迎えます。4か月にわたる攻防戦の末、オスマン軍が撤退します。ロードスでは敗れた騎士団ですが、今回は雪辱します。マルタを守り抜いたのです。その陰にはシチリアからの援軍5千の兵の力もあったかも知れません。この対オスマン戦勝利は当時のカトリック教徒にとってはレパントの海戦と並んで大いに勇気づけられる出来事だったと云います。
 ちなみに、この勝利により騎士団には多くの寄付が集まったとか。それを財源にヴァレッタの町や城が造られたのでしょうか。ともかく騎士団長の名を冠した町、ヴァレッタの誕生はオルマントルコを退けた証かも知れません。
 「イムシーナ」?。ジュンコの言葉が僕にはそう聞こえたのですが、確認出来ません。ジュンコ曰く「ヨットマリーナ」だとか。様々なヨットが繋留されています。マルタ最大のマリーナだとか。外国人所有の船が多いようです。
 マリーナの管理はマルタ海軍管轄だとか。マルタは小国ですが、軍隊を持っています。世界にはアイスランドやリヒテンシュタイン等々軍隊を持たぬ小国も少なくありません。しかし、マルタは2000名の海軍を常備しているとか。主な任務は海上警備で、現在はアフリカ難民を警戒していると云います。徴兵制度は無いそうです。

■ヴァレッタ市街

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 カーニバルと聞くと、派手な格好でダンスしながら練り歩くパレードのイメージをお持ちの方が多いかもしれません。しかし、その起源はイエス・キリストが伝道を始める前に、40日間荒野で断食と瞑想を行ったことにならい、キリスト教徒が節制の日々を送る、四旬節の直前に行われる宗教行事なのです。
 人口約40万人のうち9割以上が敬虔なカトリック教徒であるマルタでは1年のうちで一番盛大な宗教的行事だとか。マルタのカーニバルは6世紀にわたって続いている歴史的なイベントです。聖ヨハネ騎士団がマルタ島の領有権を獲得した後、1535年から、多くの町、村で行われています。特に盛大なのがヴァレッタ、フロリアーナ地区で行われるカーニバルだと云われています。
 チームごとにテーマを決めて巨大な山車を用意し、当日に備えてダンスの練習を重ね、本番に挑むのだそうです。当日は、ヴァレッタのメインストリート、リパブリック通りを派手に装飾された各チームの巨大な山車がゆっくり進み、所々で止まってはダンスやブラスバンドを披露し見物客を楽しませてくれるとか。山車が行きつく先はメイン会場です。メイン会場では各チームがダンスを発表し、それを見物人が採点し、その年1番のチームが決定します。マルタのカーニバルでは、仮装した見物客も少なくないと云います。
 フロリアーナはシベラス半島に位置します。シベラス半島は、2つの入り江に挟まれる事で半島を形成しています。半島は当然ながらマルタ本島と陸続きです。半島への出入りには門があります。
 フロリアーナには第二次大戦中の防空壕もあるとか。大戦中は英国の地中海本部が置かれたこともあり第二次大戦の史跡も少なくありません。ジュンコ曰く「独軍の空爆は凄かった」とか。
 9:30頃、ヴァレッタ到着です。ヴァレッタはマルタ島東部、二つの港を見下ろすシベラス半島の丘の上に位置するバロック建築の町です。1980年には「ヴァレッタ市街」として世界遺産登録されています。
 ヴァレッタの道路は半島の突端に向かって真っすぐに伸びています。騎士がすぐに港に駆け付けられるよう碁盤の目に整備されたと云います。城塞都市なので道は勾配がきつく、狭く出来ています。ただ、建物に囲まれた小路は涼しく、夏は過ごし易いとか。
 碁盤の目に道路整備し、十字路を造ることで見張り易くしているのだとか。そして、地下は迷路だそうです。第二次大戦中の防空壕としても使われたと云います。
 ジュンコの案内でアパーバラッカガーデンに向かいます。途中、役場と思しき建物の前に黒人の長い行列が出来ています。ジュンコの話では、「アフリカ難民」だそうで、難民登録みたいな手続き待ちの行列のようです。
 アッパーガラッパガーデンからはグランドハーバーとスリーシテイーズのパノラマが可観賞出来ます。

■イムデイーナの地図

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 古都イムデイーナを訪れたのは昨日でした。手元に簡単な地図があります。イムデイーナの城壁の外がラバトと呼ばれるエリアです。ラバトにも様々な名所、旧跡があるようです。イムデイーナのメインゲート出て右側、ラバト地区との間に「ローマンヴィラ」があります。
 「ローマンヴィラ」は、ローマ時代の邸宅跡に建てられた博物館だとか。この邸宅のモザイクの床が、展示の目玉だと云います。他に、マルタ中で出土したローマ時代の遺物が展示されているそうです。生憎、僕達は入館する機会はありませんでしたが、付属の立派なトイレは利用したように記憶します。
 地図を見るとイムデイーナには様々な施設があることが分ります。メインゲートを入ると観光時には気が付きませんでしたが、左手前方に警察署があったようです。右手には「イムデイーナダンジョン」があります。「ダンジョン」と云うのは「地下牢」といった意味でしょうか。昔の拷問や処刑の様子、魔女裁判や疫病の流行などを、人形を使って再現しているアトラクションです。
 そのダンジョンの隣に国立科学博物館があります。17世紀終わりの地震後に、マルタ騎士団長ウィルヘーナの夏の別荘として再建された建物でゲートの上には立派なマルタ騎士団長の紋章が刻まれています。現在は、化石などのコレクションを展示しているそうです。
 博物館の奥には「シャーラパレス」と云うホテルがあります。メインゲートの左側には「バッカス」と云うレストランもあります。更にその西側には「ギリシャ門」。「シャーラパレス」の傍には「聖ベネデイクト女子修道院」が建っています。「聖ベネデイクト」は「ヌルシアのベネディクトゥス」と呼ばれることが多い様です。
 彼は、中世のキリスト教の修道院長で、西方教会における修道制度の創設者と呼ばれているとか。ベネディクトスの著した会則は西ヨーロッパに広く普及し、やがて「西欧修道士の父」と称されるようになったと云います。カトリック教会・聖公会・ルーテル教会および正教会で聖人として祭られています。
 ベネディクトゥスが修道院の生活の規範とした戒律は、12世紀に至るまで西方教会唯一の修道会規であり、フランシスコ会・ドミニコ会以後の多くの修道会の会憲・会則のモデルとなったと云います。ベネディクトゥスの妹スコラスティカも、同じ精神を持って生活する女子修道院を開いています。同会の会員は「清貧」「従順」「貞潔」および「定住」の誓願をたて、修道院において、労働と祈りの共同生活を送ったのです。ジュンコが言う様に、やはり相当に戒律の規模しい女子修道会であることが、その成り立ちからも窺えます。
 修道院の対面には「イムデイーナエクスペリエンス」があります。ここでは、マルタ騎士団の話がメインの「The KNIGHTS of MALTA」というアトラクションが結構手が込んでいて面白いのだと云います。
 イムデイーナには最終日にも訪れる機会があるので、地図の続きはその時にしましょう。アッパーガラッパガーデンの次はメインストリートから共和国通りに進みます。

■スリーシテイーズ

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 グランドハーバーは、マルタ島の天然港です。少なくともフェニキアの時代から港として使用されていると伝えられます。天然港は拡張されたドックと埠頭で非常に改良され、堂々と防御工事を施されています。位置は北緯35度53分42秒 東経14度31分14秒。
 ジュンコ曰く「水深は36m、入江一周16km」だとか。港の出口は北東の方角に開き、聖エルモ・ポイントが北の境界となっています。さらに隔てられた防波堤で守られ、リカソリ・ポイントが南の境界です。北西海岸はシベラス半島で、首都ヴァレッタとその郊外フロリアナが占めています。この半島も第二天然港マルサムシェット港からグランドハーバーを分離しています。グランドハーバーの主要水路は内陸のマルサへと続きます。港の南東海岸は多くの入り江や岬があります。小さなリネラ湾、カルカラ湾、ドックヤード湾、フレンチ湾、そして小さな町カルカラ、スリーシティーズと続きます。
 ジュンコは「坂の上の雲」の撮影がここで行われたと紹介します。「トムハンクスの別荘もある」とか。「坂の上の雲」は、今は亡き司馬遼太郎の傑作だと思います。先年、NHKが3年くらいかけて映像化して話題を集めました。
 軍人として日露戦争勝利に大きく貢献した伊予出身の秋山兄弟を中心に明治と云う時代を描いた大作です。日本海海戦を参謀として勝利に導いた秋山真之、そして日本で騎兵の礎を築き、ロシアのコサック騎兵を破る奇跡を成し遂げた秋山好古。
 ジュンコの話では、カルカーラに海軍墓地があり、日本人の慰霊塔があるそうです。ここは、後ほど訪れる機会があるでしょう。
 ジュンコ曰く「スリーシテイーズはヴィットリオーザ、サングレアとコスピークワ」だと云いますが、なかなか頭に入りません。ちなみにカルカーラと云うのもスリーシテーズの一角だとか。
 ジュンコは、「ヴィットリオーザには聖アンジェロ砦があります」と教えてくれました。「島で最も古い城塞で、騎士団も最初にここに住んだ」とか。
 コスピークワは、グランドハーバー港を挟んでヴァレッタの対岸にあるスリーシティーズで一番大きい町です。第二次世界大戦の間に大きな損害を被り、再建されましたが、戦前より住民は減っているそうです。現代のコスピークワは、ドック地域の中心にある重要な中央マーケットです。文化財としては、「無原罪の聖母教会」があり、そこには見事な芸術作品が豊富に所蔵されているそうです。1638年に建造された「フィレンツオーラ要塞」やスリーシティーズの内陸の防御の一部であるマルガリータラインズなどが主なランドマークです。マルガリータラインズは、実際に第二次世界大戦を生き抜いた古いコスピークワの名残を遺しています。
 セングレアの名の由来は、16世紀半ば、この地に要塞を築いたマルタ騎士団の団長クロード=デ=ラ=センゲルに因むそうです。1565年のオスマン帝国軍による大包囲戦で活躍し、「無敵都市」と称されたと云います。
 ヴァレッタの造船所は地中海一のドライドッグを擁し世界一のタンカーも修理可能とか。

■国立考古学博物館

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 ジュンコ曰く「ポルトガルのオーベルジュが現在は首相府」だとか。つまり騎士団のプルトガルグループの宿舎が首相府として使われているのだと云います。「オーベルジュ」と云うのはフランス語で「宿泊施設付きのレストラン」を指すのだとか。
 国立考古学博物館はプロバンスのオーベルジュだと云います。プロバンス地方は現フランス共和国の南東部全域を指します。中世においてはプロバンス=フランスといった時期もあったのでしょう。聖ヨハネ騎士団の中核をなしたフランスの宿舎が現在は博物館に姿を変えています。
 国立考古学博物館に行く途中、首相府の前を通りました。ちょうど現首相の出勤に出くわしました。「今度の首相は若くてハンザム」的なことをジュンコが言います。SPらしき僅かな警護を従えて颯爽と首相府の中に消えて行きました。
 「公用車を使わず自家用車で出府」なのだとジュンコが教えてくれました。首相府前に乗り捨てられた豪華なアルファロメオをカメラに収める観光客も少なくありません。警備員が「ナンバーを撮るな」といった感じで警備していました。ちなみに僕も2、3枚撮りました。
 現首相は2013年の選挙で勝利した労働党党首ジョセフ・ムスカット氏です。1974年生まれと云いますから40才そこそこの若さです。2012年12月,議会において2013年度予算が否決されたため,2013年3月9日に総選挙が実施されたそうです。この選挙で野党労働党は,約55%の得票率を得て,3月11日ムスカット労働党政権が誕生したと云います。僕達がマルタを訪れた5月初旬はムカット政権が発足したばかりの時期だったのです。
 国立考古学博物館は、ヴァレッタメインストリート、リパブリック通りをシティーゲートから90メートルほど進んだところにあります。ジュンコ曰く「設立は1570年」。マルタ騎士団のプロヴァンス地方出身者の宿舎を利用した施設です。紀元前5200~紀元前2500年のマルタ考古学上とても貴重な遺跡を展示している博物館です。
 中でも現在の美意識とは若干かけ離れた当時の「マルタヴィーナス」は未だに多くの謎に包まれている地下神殿ハイポジュームから発見された大変貴重な女体の形をした遺跡だと云います。
 このヴィーナスは首のない小さな女性像です。乳房が大きく腹も妊婦のようにせり上がっています。古代人の豊饒の思想を表しているのかも知れません。「首付きの像はニューヨークに出展されています」とジュンコ。
 展示には女性器を模した像もあります。妊娠、出産、出産後の女性を模した像もあります。同時に男性器を模した像もたくさんあります。いずれも五穀豊穣を祈念したものでしょう。
 地下神殿コーナーもあります。地下3Fまでありますが、一番上が最も古いのだとか。マルタの巨石神殿はエジプトより1000年は古いと考えられています。地下神殿は柱を曲げてアーチを重ねてドーム状に造られていたとか。

■真梨子紀行127

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 今夜(2013年7月27日)、真梨子さん、国際フォーラムです。27、28日と連夜の公演です。7月は、下記の通り、九州、大阪、静岡と巡って東京有楽町に凱旋?です。
1.7月5日(金) 大分県 iichiko グランシアタ
2.7月7日(日) 長崎県 アルカスSASEBO
3.7月11日(木) 大阪府 フェスティバルホール
4.7月13日(土) 大阪府 フェスティバルホール
5.7月14日(日) 大阪府 フェスティバルホール
6.7月20日(土) 静岡県 静岡市民文化会館
真梨子さんの体調を考えてかと思いますが、ゆったりした日程です。
6月にはTVへの露出も多く、特にNHK・Eテレ「ミュージックポートレート」とBSの「拓郎のYOKOSO」は面白く拝見しました。録画して何度も見ては、新しい発見に一人ほくそ笑んでいます。どちらにも共通の話柄は更年期障害です。これまでも真梨子さんは様々な機会に更年期障害の経験を話していますが、今回の述懐を聞いて、あたらめて大変なことだったことを再認識させられました。そして、真梨子さんが現在まで歌い続けてくれた陰にヘンリーさんの尽力があることも。どこかで、真梨子さんが語っていましたが、ヘンリーさんは「いつ辞めても良いんだよ」と言ってくれたことで凄く楽になったと云います。真梨子さんは拓郎さんにも話していましたが、とても責任感の強い方です。「絶対に仕事に穴を開けない。熱があったってステージは休まない」と真梨子さんは言います。そんな真梨子さんにとって更年期は、さぞや辛かったころでしょう。
 拓郎さんも指摘していましたが、真梨子さんは若い時分は「どこか自分の歌を見限った」部分がありました。「お先にどうぞというタイプ」と真梨子さんはスクールメイツ時代を語っていますが、カプリシャス時代やソロデビュー当初は「嫌なら、いつでも博多に帰れば良い」と突っ張っていたのでしょう。歌だって「自分の思う歌が歌えなくなったら、いつでも辞める」と思い定めていたのだと思います。
 かつてモノローグコンサートを赤坂の草月ホールで一週間ほどの連続公演をやったころが、当にそうだったと思います。また、池袋サンシャインでのコンサートだったかと思いますが、「裏窓」を披露して「間違ったら、やり直すから」と言って、歌いなおしたこともあったようです。この「裏窓」は、確か浜田金吾の作品だったように思います。アルバムのトラックの最後では拍手が聞こえます。真梨子さんも指摘していますが、良く聴かないとわかりませんが・・・。ライブ録音ではありませんが、スタジオ関係者が真梨子さんの出来に感激して拍手が沸いたのでしょう。それほど、この歌は難しいのだと思います。
 この浜田金吾こそが真梨子さんの大失恋の相手です。ミュージックポーポートレートで、真梨子さんが失恋の思い出を語ると相手の萬田久子さんが「可愛い」を連発するほど、真梨子さんは純真無垢に浜田を愛していたのでしょう。真梨子さんは「身も世もなく彼のいない世界、国に行きたかった」と述懐しています。ちなみに浜田は真梨子さんの母上の葬儀に参列したとか。真梨子さんのお母様は彼を大変可愛がっていたそうです。このとき、真梨子さんは大失恋後初めて彼に会ったそうです。20年近い時を経て和解したのでしょうか。
 こういった真梨子ネタを書いていると、いつまでも終わらないので今日はここまでにします。今夜のフォーラムは6:30開演です。6月の川口以来の生「真梨子さん」です。今日の席は40列目です。音響的には、ここいらが最高かも知れません。例年、大阪をターニングポイントに演出が少し変わっていることが多いのですが、今日はどうでしょう。コンサートの様子は、また報告したいと思います。

■真梨子紀行128

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 行ってきました。昨晩のフォーラム良かったです。ステージが締まってましたね。まずは楽曲です。順不同はご容赦ください。
1.ジョニィへの伝言
2.五番街のマリーへ(FIFTH AVENUE)
3.陽かげりの街
4.はがゆい唇
5.枯れない花
6.So in Love
7.無伴奏
8.ヒラヒラ淫ら
9.心のメセージ
10.遥かな人へ
11.ラストメール
12.真っ白いシャツ〜Lonely girl Lonely boy
13.桃色吐息
14.グランパ
15.ごめんね
16.for you…
17.ありがとう
18.ハート&ハード~時には強く時には優しく
19.アナタの横顔(新曲)岩谷産業株式会社タイアップソング
20.My Heart New York City
たぶん、以上20曲だったと思います。抜けがないか今日、また確認しましょう。
 「五番街のマリーへ(FIFTH AVENUE)」は英詞です。確か、2000年ツアー「MARIKO in the box」でも披露されていましたが、JAZZテイストで良い仕上がりだと思います。「陽かげりの街」はラテンテイストにアレンジし直されて古さを感じさせせん。これ、確かヘンリーさんの作曲でしたね。ちなみにメンバー紹介では「ヘンリー」とだけ紹介することにしたと真梨子さんが言っていました。「広瀬」を言わないほうがハーフみたいで良いとヘンリーさんが思っているとか。尤もヘンリーさんが、生粋の日本人でお父さんが力士だと真梨子さんが今回の暴露していましたが・・・。ヘンリーさんの出身は岐阜?だったでしょうか。
 「枯れない花」。良いですね。真梨子さんの真っ赤なイブニングドレスに似合う歌です。「So in Love」。小生の大好きな一曲です。1995年発売の UNIMAT グループイメージソングです。シングルカットされていますが、この作品唯一オリジナルアルバムに収録されていない稀有な存在だと思います。これからもステージで歌い継いで頂きたい一曲です。
 2回目のMCの際、いきなりヘンリーさんが登場しました。いつもは真梨子さんが「へんりーさん」といったかたちで振ることが多かったように思います。ヘンリーさんにスポットライトが当たって「ヘンリーです」とおしゃべりを始めたのは些かサプライズでした。今年は真梨子さん、結構メデイアに吐出が多いのですが、これからも積極的にTV等の仕事を入れるようです。真梨子さんは「AKBと共演して刺激になった」と言っていました。
 ヘンリーさん曰く「高橋40年がオリコン初登場4位」だったとか。真梨子さんのアルバムがトップ10入りするのは「No Reason」以来3年ぶりくらいでしょうか。「高橋40年」ロングヒットになりそうな予感です。
 「無伴奏」はコンサートマスターとして真梨子さんのステージを支える宮原啓太の作曲です。しっとりとした失恋模様?を歌い上げています。「ヒラヒラ淫ら」は熱いパッションを感じさせる恋歌です。この作品も小生大好きな一曲です。
 「心のメッセージ」。これも小生の中では指折りの作品です。かつては、真梨子コンサートの最後を飾る曲の定番でした。「ランナー」と双璧の人生応援歌ではないでしょうか。
 続きは、また後程。

■真梨子紀行129

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 川口でも気になったのですが、「遥かな人へ」の演奏に万照氏が参加しないことです。過去、こんなことはなかったように思います。手持無沙汰でもステージには姿があったように思います。そういえば、NHK・SONGSでの演奏時にも彼の姿がなかったような・・・。謎ですね。何か特別な理由があるのでしょうか。
 今回の公演は2部構成で、途中10分ほどの休憩を挟みます。真梨子さんのファン層である還暦過ぎの熟年層に配慮したのでしょうか。確かに初期のコンサートでは2部構成の時期もありました。万照氏が「ヘンリーバンドも35周年」と言っていましたが、当時は「ヘンリーバンドプレイ」がありませんでした。その代わりに休憩だった訳でもないと思いますが・・・。35周年と云えば真梨子さんのソロデビュー以来と云うことです。もちろん初期の頃はメンバーが固定していませんでした。ヘンリーさんが「セッションマン」と呼んだ流しのミュージシャン達がヘンリーさんの呼びかけに応じて集まっていたのでしょう。それが、最初のカーネギー公演前後からメンバーが固定したのではないでしょうか。今のメンバーも多少変動がありますが、2000年ころからは不動のメンバーでしょう。ちなみにヘンリーさんが「今はないが、そごうに読売ホールがあって、そこで最初のコンサートやった」と懐かしげに述懐していました。そうです高橋真梨子コンサートVOL1.ひとりあるきコンサートです。このコンサートは2枚目のアルバム「サニーアフタヌーン」に引き継がれ真梨子さんのライブ活動が本格化していったのを記憶しています。
 前置きが長くなりましたが、後半の幕開けは「桃色吐息」です。「桃色吐息」は何度か編曲を変えて真梨子ワールドに欠かせぬ作品になっていますが、今回の編曲は絶品だと思います。産経新聞何かが「エンヤ風」と評していましたが、云い得て妙です。真梨子さんの左右で大きくバチwぽ振り上げて太鼓を叩くヘンリーさんと万照氏が圧巻です。感じ的にへんりーさんがメインで万照氏がサブでしょうか。この太鼓がケルトを思わせるのかも知れません。ケルトはアイルランド辺りに遺るローマ以前、キリスト教のない時代の文化です。人間の自然に対する畏怖を感じさせる響きがあります。
 今回の編曲は林有三が担当しています。オリジナル奥恵一でした。
 ああ、もうコンサートに出かけねばなりません。今日は、5時半開演です。

■真梨子紀行130

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 一曲抜けていました。OLD TIME JAZZでした。これもJazzテイストの佳作だと思います。7/28(日)のコンサートは大盛り上がりでした。夏のフォーラムには常連の久子ちゃんも登場していました。真梨子さんの20年来の親友、女優の萬田久子さんです。この夜も黒の帽子に黒のパンツルックで決めていました。
 やはり前日のコンサートに比べて常連さんが多いせいか、早い段階から会場総立ち状態です。真梨子さんが萬田さんを紹介して、ヘンリーさんが「女優さんだからスポットライト当たるの慣れているでしょう」とピンスポ当てると彼女は立ち上がって会場に挨拶してくれました。
 ヘンリーさん曰く「今回のステージはオペラ座をイメージした」のだとか。緞帳が上がるとバックには腕時計の歯車のようなオブジェが現れます。「時計の裏から見たイメージで、2hかけて40年を刻む仕様になっている」と云います。
 そういえば、萬田さん、真梨子さんに「黒着てるから分らない。赤い衣装にして」等と突っ込まれると「まだ還暦じゃない」と応じていました。すると真梨子さん「すぐ還暦だから、追っかけて来て」と畳みかけていました。
 万照不在事件?も確認しました。前日は「遥かな人へ」で姿を消していましたが、今日は、「アナタの横顔」と「My Heart New York City」で彼の姿が認められませんでした。メンバー紹介時の手品の準備でもしていたのでしょうか。
 メンバー紹介と云えば、真梨子さん、コンサートマスターの宮原啓太にお冠でした。万照氏の手品の伴奏で宮原氏が「枯れない花」を弾いていたのですが、万照氏のおちゃらけにあわせて大事な作品を愚弄したと真梨子さんは「不真面目」と指弾していました。
 真梨子さんの舌鋒は小松崎純さんにも向けられます。いつもは「キーボード、小松崎ジジイ」と揶揄される小松崎さんですが、今夜は「キーボード、サックス、アルツハイマー、小松崎純」と紹介されていました。真梨子さん曰く「2部の衣装の着替えで、この人だけ私服に着替えてしまった」そうで、「何を考えているのやら」と・・・。
 前日、小生は1Fの40列だったのですが、真梨子さん曰く「一番良い席は14列あたりと2Fの最前列」だとか。この夜の小生の席は、その14列41番でした。隣席には小生より相当な先輩がいらっしゃいました。お一人様です。真梨子さんと同等以上のシニアが多い会場ですが、若者もいます。大阪の常連らしい、23歳の青年が東京に引っ越して来たとか。また、小学1年生から真梨子コンサートに来ているという8歳の子もいました。確かに、この夜は小学生くらいの児童の姿が目につきました。
 前日は気が付かなかったのですが、「桃色吐息」で始まった2部はMCなしでした。ああ、時間がないので続きはまた・・。

■騎士団長の宮殿

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 考古学博物館に行く途次、聖ヨハネ大聖堂の前を通りました。ジュンコが入場待ちの行列を横目に見ながら、「並ばないほうが良いよね」ってな感じで、まずは考古学博物館を案内してくれました。
 その後、聖ヨハネ大聖堂に戻りましたが、行列は消えていません。「並びたくないね」とジュンコは先に「騎士団長の宮殿」へと踵を返します。マルタ騎士団長の宮殿は噴水のあるパレス広場の前に建っています。
 歴代の騎士団の宮殿には、現在、大統領府と国会が置かれています。「赤い部屋」と呼ばれる謁見の間があります。ここで、大統領が賓客と面会すると云います。この謁見の間、かつては騎士見習いの控室だったとか。
 壁にはゴブラン織のタピストリーが飾られています。オランダ製でフランスのルイ16世から贈られたものだとか。織柄の絵は熱帯をモチーフとしています。当時、オランダ支配下にあったインドネシア辺りのイメージでしょうか。
 ゴブラン織りの歴史は古く、その系譜は、古代西アジアやエジプトに起源を持つ華やかな「綴れ織り」芸術まで遡ると云います。特に、13~14世紀のヨーロッパでは、城や聖堂、邸館などの居室の装飾として発達したそうです。経糸に麻、緯糸に羊毛や絹を用い、平織りで様々な絵柄や文様を織り出すこのタピストリー制作は、主としてフランドルや北フランスに点在するアトリエを中心に行われ、やがてルネッサンス・バロックの時代を経てヨーロッパの工業芸術における、最も創造的な分野の一つを形成したことは良く知られているかも知れません。
 ゴブラン織りの語源は15世紀頃にフランスで人気を博した、ゴブラン家のGillesとJean兄弟の工房に由来し、その後17世紀に、フランス・ルイ14世がフランドルの技術に追いつけ追い越せということでこの工房を国営化、保護育成しやがて綴れ織り自体がゴブラン織りと呼ばれるようになったのです。
 ちなみに、日本におけるゴブラン織りで最も古いものとしては、京都祇園祭の鶏鉾の見送り幕や滋賀長浜の鳳凰山見送り幕に使用されている16世紀のベルギー製タピスリーが有名で、いずれも国指定重要文化財となっているとか。
 宮殿の廊下には騎士団長の肖像画や甲冑が並んでいます。舞踏会の間にはオスマントルコを破った大包囲戦のフレスコ画も飾られています。
 タピストリーの部屋の天井には聖ヨハネの生涯を描いた絵画が広がっています。ヨハネの誕生からイエスに洗礼を受け、斬首されて殉教者となるまでが描かれています。
 宮殿観光後、ジュンコは広場で旧知の男性家族と出くわしたようです。なんでも、ゴゾ島のドライバーだとか。大統領府の入口には衛兵が二人並んでいます。白の制服に小銃を携えています。銃は玩具のように見えますが、本物でしょう。同行者に元気な婆さんがいて、衛兵に敬礼して笑わせています。

■マヌエル劇場

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 ちなみに敬礼の起源は中世の騎士に遡ると云われます。兜の面ほうを片手で上げる仕草が敬礼になったとか。
 聖ヨハネ大聖堂は後回しにして、ジュンコが「劇場行きましょう」と僕達を「マヌエル劇場」に案内します。予定になかったサプライズです。「ここかな」といった感じでジュンコに付いて行くと、デパートのパーラーみたいなカフェに出ました。そこを通りぬけて、再た通りに出ました。ジュンコは「確かここだった・・・」と思ったようですが、デパート?の女性スタッフに劇場を確認していました。
 「こっちです」。ジュンコに案内されたのは小さな博物館でした。中世の騎士や貴族の女性が纏ったと思しき衣装が飾られています。騎士団長たちの額も掲げてあるようです。かつての演目を描いた絵も展示されている感じです。
 この陳列廊下?を抜けると劇場です。劇場内には先客がいるようなので、彼らが済んだら入場とジュンコは僕達を制しました。しかし、先客が長そうなのでジュンコが「良いですか?」といった感じで入場許可を求めて劇場に入りました。
 客性は660席くらいだそうです。舞台正面のバルコニーには大統領、首相、文化相の席があるとか。この劇場は騎士団が造ったものだと云います。騎士団はマルタに来てからは、あまり戦いをせずに劇場造ったりしていたようです。恐らく対オスマンの大包囲戦に勝利してからは莫大な寄付を集めたと云われますから、その財を充てたのかも知れません。この劇場と騎士団長の宮殿は地下通路で繋がっているそうです。
 マルタ出身の人気オペラ歌手がいるそうです。彼はマルタ人の誇りだと云います。彼は、時折、このマヌエル劇場で凱旋公演を行うのだとか。劇場は、1731年に創建されヨーロッパで3番目に歴史があるそうです。
 昼食前に、いよいよ聖ヨハネ大聖堂の見学です。外観は、マルタ石の名で知られるマルタ島産の石灰岩を使用しています。ジュンコ曰く「外観は質素」です。バロック様式の内装は、カラブリア出身のマルタ騎士団員で画家のマッティア・プレッティの手によるものが大部分を占めています。プレッティは精巧に刻まれた石の壁を設計し、ヴォールト天井と祭壇の両側を聖ヨハネの生涯を描いた絵画で埋めつくしました。ジュンコは「内部は豪華」だと言います。
 教会の本堂には、騎士団長たちが眠る、大理石でできた墓石が並んでいます。墓石は豊かな装飾がなされ、石の下に埋葬されている騎士の似姿と同様にその紋章が彫られ、時には戦勝の物語を記しています。
 聖堂内の礼拝堂は、騎士団を構成した騎士が8言語ごとの騎士館に分けられていたのにならい8つあります。小礼拝堂に展示されている絵画、カラヴァッチョの「洗礼者ヨハネの斬首」は、この聖堂の宝でしょう。
 カラヴァッチョは「人を殺して騎士団に匿われた」とか。彼は、「聖ヨハネの斬首」のカンバスに血の延長線に署名を遺しています。

■カラヴァッジョ

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 ヨハネ大聖堂の床は見事な大理石です。床下に墓があることは前にも述べました。墓の上の大理石に墓標のように位によって異なる印が刻まれています。墓の主の多くは騎士や僧侶だそうです。
 ちなみにマヌエル劇場にも幽霊話があるとか。ジュンコ曰く「騎士姿の女性の幽霊」だと云います。宝塚歌劇の「ベルサイユの薔薇」や手塚治虫の「リボンの騎士」を想像したら良いでしょうか。
 マヌエル劇場は第二次世界大戦で、一旦は消失したのでしょうか。ジュンコが「第二次世界大戦でオペラ座が焼失」と言っていました。マヌエル劇場イコール、オペラ座か否か確認する機会がありませんでした。
 ヨハネ大聖堂の天井は木製です。ジュンコは「お金掛かっています」と笑わせます。カラヴァッジョの「聖ヨハネ斬首」と「聖ヒエロニムス」が傑作です。レンブラントにも影響を与えたと云われる「光と影の手法」が多くの観光客を引きつけて止みません。
 ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョは、1593年から1610年にかけて、ローマ、ナポリ、マルタ、シチリアで活動し、カラヴァッジョという通称で広く知られています。その作品に見られる肉体面、精神面ともに人間本来の姿を写実的に描く手法と、光と陰の印象的な表現はバロック絵画の形成に大きな影響を与えたと評価されています。
 しかし、その暮らしは順風満帆ではなく、自宅で暴れて拘置所に送られたことが何回かあり、ついには当時のローマ教皇から死刑宣告を受けるほどだったとか。
 カラヴァッジョの暮らしは「二週間を絵画制作に費やすと、その後1か月か2か月のあいだ召使を引きつれて剣を腰に下げながら町を練り歩いたと云います。舞踏会場や居酒屋を渡り歩いて喧嘩や口論に明け暮れる日々を送っていたため、カラヴァッジョとうまく付き合うことのできる友人はほとんどいなかったそうです。
 1606年には乱闘で若者を殺して懸賞金をかけられたため、ローマを逃げ出しています。さらにマルタやナポリで乱闘騒ぎを引き起こし、乱闘相手の待ち伏せにあって重傷を負わされたこともあったとか。
 最後は熱病にかかり、トスカーナ州モンテ・アルジェンターリオで38歳の若さで死去しました。人を殺してしまったことへの許しを得るためにローマへと向かう旅の途中でのことだったと云います。
 ジュンコは聞けば、福岡県出身だとか。「マルタに来て15年」だとか。彼女は、その行く立ての多くを語りませんが、マルタ人の夫と息子の3人暮らしのようです。
 「マルタ男性は若禿げが多い」とジュンコが言います。彼女の旦那も禿げていると笑わせます。
観光後、ジュンコの案内で歩いて昼食場所に移動です。今日のレストランはマルタでも指折りの人気レストランだとか。「Palazzo Palace」です。路地裏に面した隠れ家レストランです。

■昼食

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 ランチのメニューは、トマトソースのペンネ、サーモンのグリル、オレンジタルトでした。それに、当然ながらパンが出ます。もちろん、僕はビールを頂きました。大と小がありましたが、迷わず大を選択します。ちなみにドリンクは昨晩の夕食の手際が悪かった詫びにモモの驕りです。
 ペンネは、ペン先状、筒状のパスタの総称です。イタリアのカンパニア州やシチリア州でよく食べられているやつでしょう。中でもペンネ・リガーテは表面には細かい溝があり(リガーテ は、「溝が入った"」の意味)、ソースが絡みやすくなっているため、よく使われます。日本では、ショート・パスタやマカロニといったほうが、馴染みがあるでしょう。2〜3cmのまっすぐな筒の両端を並行に斜めに切り落としたやつです。
 このパスタ、僕の口にはあいません。薄味なのか、あまり美味しくありません。サーモンも塩味薄く、醤油が欲しくなります。仕方なく、野菜の付け合せをメイン?のように頂きました。ジャガイモや温野菜の付け合せは、それほど不味くはなかったように思います。
 タルトというのは、ビスケットの上にクリームやら果物やらが載ったやつです。タルトという言葉自体はフランス語ですが、「焼き菓子」に相当するラテン語「tōrta」に由来すると云います。さらにそのルーツは古代ギリシアやエジプトにあるとか。ジャムやクリームはそのままではゲル状で食べにくいため、食べられる器に入れて出そうとしたのが始まりであると云われています。
 いずれにしても、この手のデザートは僕の苦手なので遠慮しておきました。昼食後はフリータイムです。店を出たのは14:30くらいでしょうか。一旦、聖ヨハネ大聖堂の前の広場まで戻ります。ここで、15:15集合を約して解散です。
 銘々、マルタクロスのアクセサリーを買い求めたり、中には「ハニーリング」と云われる菓子を購入する向きもありました。「ハニーリング」は、パン生地の中に蜂蜜と黒糖を練りこんだマルタ伝統の菓子だとか。
 大聖堂の前の広場には騒々しい音楽屋台が出ていました。機関車型の観光トレインも走っています。電動他タクシーも一般的なようで、5ユーロ支払えば、どこにでも行けるとか。
 マルタではアフリカ難民が社会問題化しています。難民は特にソマリア出身者が多いと云います。EUに加盟した手前、受け入れ拒否は出来ません。難民のせいか、マルタに人口増加が続いているようです。15年前は37万人だったのが、今では41万人だとか。
 ジュンコの語るところによれば、「けして貧しい人ばかりではない」そうです。「中には多国語を操るハイクラスも混じっている」そうで、「時には弁護士もいる」のだと云います。難民登録すれば、政府から住まいも仕事も与えられます。これが、マルタ国民の就労を圧迫するという不満が高まっており、政府は難しい舵取りを迫られているのだとか。
 フリータイムを終えて、今日もホテル帰着組とハイポジウム観光組に別れます。僕はモモ達と一緒にホテルに戻ります。ホテル帰着は16時頃でした。モモは今日もスーパーマーケット等、希望者を案内するようです。

■Chapter One

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 部屋に戻って、まずはシャワーです。さっぱりしたところで持参の日本酒で喉を潤します。肴はアタリメです。やはり、これが日本酒にはあいます。昼食はあまり食が進まなかったので「おにぎり」も頂きました。便利な「おにぎり国際線」です。これは、非常食としても重宝です。カップみそ汁「蜆汁」も美味しく頂きました。
 日本語放送にチャンネルを合わせてみました。Jリーグが放送されていました。マリノスVSアントラーズです。サッカーには、あまり興味がありませんが何となく視聴していました。前半にアントラーズが先制しましたが、後半にマリノスが追い付いてドローです。
 今晩の夕食はフリーです。僕達はモモの案内で「Chapter One」に行く予定です。このお店、モモの旧知の日本人ガイド「友子さん」の息子さんがやっているとか。ホテルから徒歩5分ほどのところにある地中海料理のお店です。
 地中海料理は、ギリシャ、イタリア、ポルトガル、スペイン等のヨーロッパや北アフリカ諸国の地中海沿岸の料理の総称です。オリーブ油・ナッツ類、野菜、果物をふんだんに使うのが特徴だとか。地中海沿岸地域の人たちは、この食文化のおかげで心疾患による死亡率が低いと云われています。英医学誌「ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル」によると、「地中海料理」が、心臓病や癌、アルツハイマーなどの神経変性疾患にかかるリスクを減少させるという研究結果もあるとか。2008年3月には、イタリア、スペイン、ギリシャ、モロッコと共同で、地中海料理をユネスコの世界無形文化遺産へ正式に登録申請したそうです。日本政府も和食を同じように世界無形文化資産登録を画策していることは周知の通りです。
 18:25、ロビーに全員集合してモモの案内で「Chapter One」に向かいます。昨日、スーパーマーケットを散策した道の途中です。ホテルの前の通りを左に出て坂道を上がったところです。スーパーのちょっと手前でしょうか。
 店に入ると手前にバーカウンター風の造りがあり、その向こうにテーブル席が2席、更に一段上がったフロアにテーブル席が4つくらいといったこじんまりとした家庭的な雰囲気を醸し出しています。店には友子さんも顔を見せてくれていました。
 暫くすると、僕達とは別行動だったカジノ夫婦が現れました。偶然、同じ店を選んだようです。奥の二人席のテーブルでワインボトルを開けていらっしゃいました。
 モモは、一頻、僕たちのオーダーを捌くと、「別のお客様のアテンド」に出て行きました。確か、老人カップルの日本食店でしょうか。さきほど、店の前を彼らが通り過ぎたような・・。
 さて、夕食ですが、前菜はカツオのカルパッチョです。メインは「兎」です。デザートはバニラアイスでした。同席したのは7名です。オノミチ夫妻、セブンスター夫妻、130か国女史にメデイカル夫人です。
 オノミチご主人と130か国女史は、「四谷3丁目の名店談義」を始めました。どうも、僕はこういう話柄には付いていけません。やれ「そばやうどんは、どこどこ。鰻はここ。天ぷらは・・・」。ニューオータニの「久兵衛」の話も出ていました。

■カルパッチョ

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 名店談義はメデイカル夫人にも飛び火します。彼女は静岡県・清水市出身だとか。すかさず130か国女史が「鮨はスエヒロ」と言い放ちます。メデイカル夫人も「スエヒロは高級店で一人前7万円もある」といった話をされていました。
 カルパッチョと云うのは、何度食べても美味しいものではありません。このカルパッチョ、「ヨハネの斬首」で著名な画家カルヴァッチョと関係があるようです。
 彼が薄切りの生牛肉にパルミジャーノ・レッジャーノをかけた料理を好んだことから、その料理は彼の名を取ってカルパッチョと呼ばれているという説があるそうです。また、彼の独特の赤色を基調とした作風が、皿に並べられた薄切りの生牛肉の色彩に類似しているためにその名があるとする説もあるとか。1963年、ヴェネツィアでのヴィットーレ・カルパッチョ生誕500年回顧展の期間中に、同地のレストラン「ハリーズ・バー」で考案された料理との説も知られています。
 兎の肉も、あまり口にはあいません。見た目は鶏肉です。パサパサで大味です。結局、ビールやワインで腹を満たし、最後のバニラアイスで締めました。ドリンクはグラスビール+マルタワイン2杯頂きました。
 モモは「10分で戻る」と出て行ったのですが、結局戻って来たのは、僕達が食事を終えた頃でした。事の他老人カップルに手が掛かったようだと後で聞きました。夕食のお代は呑み代含めて43ユーロでした。日本円で6千円弱と安くはありません。
 兎の肉は欧州では一般的に食されているようです。狩猟や養殖によって得られた兎の肉は、古代、マンモスなどの大型の獲物が少なくなるにつれ、人類にとって重要な獲物となっていったと云います。ネアンデルタール人は、このような小さな獲物を狩るための適応が出来なかったため、滅んだとの説もあるとか。
 兎は柔らかい食肉となると云います。兎のフィレ・ステーキという料理もあるそうですが、1羽のフィレ部分はホタテ貝の貝柱程度の寸法しかなく数頭分のフィレ肉を使うことになるとか。挽肉にすると粘着性が高いので、ソーセージやプレスハムに結着剤として使われることがあるそうです。
 日本でも、古来より狩猟対象であり、食用とされてきた歴史があるとか。縄文時代の貝塚から骨が見つかることはそれを示唆するものであると考えられ、江戸時代徳川将軍家では、正月の三が日にウサギ汁を食べる風習があったと云います。秋田県の一部地域では「日の丸肉」と呼ばれ、旅館料理として出されることがあるとか。この日の丸肉という名称は、一説によると、明治期に日本で品種改良されて定着した白毛に赤目の兎が、あたかも日の丸の色彩を具現化したような動物であったことによるとも云われています。
 ホテルに戻ったのは9時過ぎです。部屋に入って日本語放送を見るとTV朝日の「遺留捜査」をやっていました。夕食は結局、呑むだけだったので夜食にカップ麺を頂きました。ニュータッチの「ネギらーめん」です。マルタではカップ麺とカップみそ汁のお世話になることが習慣になりそうです。

■真梨子紀行131

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 真梨子さんのアンコール時に着用していた衣装はAKBの衣装を手掛けるデザイナーの作品だとか。真梨子さん40年のレコード?ジャケットが全て配われているのだとか。エンデイングは「グランパ」、「ごめんね」、「ありがとう」だったでしょうか。
 最後は、会場はスタンデイングオベーションです。足早に家路を急ぐ向きもありますが、大勢は真梨子さんが舞台の袖に消えるまで立ち上がって拍手を送っています。
 ヘンリーバンドの面々も舞台正面に下りて来て、全員が手を繋いで会場の応援に応えています。万照氏は「僕は20年」と言っていましたが、コンサートマスター宮原氏は1994年からの参加ですから、やはり20年近いですね。純さんは、1978年参加ですから真梨子さんのソロデビュー以来の付き合いです。真梨子さんは「アルツハイマーだから、そろそろ首にしなきゃ」などと笑わせますが、彼女にとっては、ヘンリーさんと並んで、まごうかたなき戦友の一人に違いありません。
 野々田万照氏も参加は1994年です。宮原さんと同期でした。リードギターの藤井さんは1996年からです。ベースの小川さんは新人ですね。まだ3年くらいじゃないでしょうか。以前は岡田さんでした。マロさんは以前は北沢マロと紹介されていましたが、ヘンリーバンドには1990年から参加しているようです。ドラムの山下さんも新人だと思っていたら、もう10年ですね。2003年からの参加です。まあ、万照氏が言うように、ここ20年のヘンリーバンドは、ほぼ固定メンバーです。ですから、今や真梨子コンサートの風物詩?ともいえる「ヘンリーバンドプレイ」も息が合っているのでしょう。
 1993年に真梨子さんは最初のカーネギーホール公演を成功させています。ヘンリーさんと結婚した年でもあります。このステージでヘンリーバンドを構成したのは、ヘンリー広瀬、小松崎淳,宮本大路、北沢マロ、佐々木晴夫、細木隆広、平田文一、柳沢二三男の面々です。
 1998年の香港公演では、万照さん、吉田さん、岡田さんが加わっています。吉田匡さんはドラマーです。山下さんに代わるまでヘンリーバンドで真梨子さんを支えていました。
 そういえば、先日、NHKの番組で、石川さゆりのバックを柳沢さんがやっていたような・・・。ヘンリーバンドを去っていかれた方々は今、どうされているのでしょう。
 柳沢さんは1962年生まれだとか、もう50代ですね。指折りのギタリストで、矢沢栄吉のバックを長く努めているようです。宮本さんは、万照氏等と同じくJazzミュージシャンです。サックスとドラムを本格的に学んだ経歴があります。真梨子さんのステージでもドラムを叩く姿が印象に残っています。1988年~1994年までヘンリーバンドに在籍しています。今でもスタジオミュージシャンとしてライブ活動も精力的にこなして4いるようです。
 続きは、また。

■4日目

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 マルタ4日目の朝を迎えました。5月4日です。今日は終日、ゴゾ島観光の予定です。ジュンコ曰く「土曜日は観光客+マルタ人も休暇で観光する」そうで、随分と混雑するとか。そこで、今朝はいつもより1hほど早めの出発が予定されています。
 6時に起床して身支度をします。今朝はトイレの排水があまり良くありません。タンクへの注水もなかなか止まりません。聊かアメニテイー?に不安を覚えます。
 6;30頃、エレベーター前でセンセイとミネ夫妻に会いました。センセイは良く分りませんが、3人連れです。ミネ夫妻からセンセイと呼ばれていますが、何のセンセイか分りません。このミネ夫妻もご夫婦か否か判然としません。ただ、会話の具合から、そんな感じがするだけです。このセンセイ、聞いたところでは弁護士だとか。ミネ夫妻?も本当は兄妹かも知れません。いずれにしても、この3人、常に同一行動です。最後にはマルタに延泊されます。なんでも飛行機の席が横並びで取れなかったのが延泊理由だと云います。
 3人組と一緒に朝食会場に行くと、ちょうどレストランはオープンするところでした。今朝はトースト3枚+イチゴジャム+コーヒーに生野菜と林檎を頂きました。随分と久方ぶりに林檎の丸かじりを体験しました。トーストの食パンは一斤10枚切かといった薄いパンでした。
 ロビー集合は7;45です。7:50には全員集合で専用バスに乗込み、港に向かいます。港はマルタの北東、チェルケウア港です。この港からゴゾ島へのフェリーが出ているそうです。ホテルから時間にして20分くらいでしょうか。
 途中、マドリエナ?地区を通りました。ジュンコのガイドでは、「高級住宅街で、ヴィラが多い」そうです。「プール付きで、右手に海が見える」とも云います。それでも5千万以下で手に入るとか。我々、日本人の感覚では安い買物かも知れません。
 ちなみに、マルタ人の懐具合は最低月収が680ユーロだとか。平均月収は10万円前後といったところのようです。日本でも年収200万円未満の人々が増えていますが、マルタ人にとって5千万のヴィラは高値の花のようです。
 ヴィラは本来、上流階級のカントリー・ハウスを意味し、古代ローマが起源ですが、その概念と機能は時代と共に発展してきました。共和政ローマが終焉を迎えるとヴィラは小さな要塞化された農場の複合家屋となっていきましたが、中世を通して徐々に再発展し、贅沢な上流階級のカントリー・ハウスとなっていったと云います。現代では、特定の種類の一戸建て郊外住宅を指すことは周知のことでしょう。そういえば、イムジーナのメインゲートの脇にローマンヴィラという博物館がありました。
 マルタの住宅はEU加盟後、値上がりしたそうです。「1千万円くらいが一般的」だとジュンコは言います。ジュンコが前にも言っていましたが、マルタ島は「南は断崖、北はなだらか」です。ブルーグロットは南側でした。北側は岩の海岸が続きます。
 海岸には見張塔も少なからず遺っています。ヨハネ騎士団が24時間3人体制で監視していた時期もあるそうです。何かあれば狼煙を上げたとか。

■ゴミの分別

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 港までの途次、ジュンコがマルタ生活事情の一端を明かしてくれます。曰く「丘はゴミ処理場」だとか。「マルタでは分別の習慣などなかったが、今は分別を始めた」。「月、水、金は何でも捨てて良い。火、木は分別ゴミの日」だとか。ジュンコの話では、1/3くらいの家庭がゴミの分別を実施しているそうです。しかし、何でも捨てて良い日があるのは、僕達には羨ましい限り?です。
 「町の中にもゴミ箱があります」とジュンコが言います。これも有難いことです。日本ではセキュリテイの絡みもあり、めっきり街中や駅のホームのゴミ箱は姿を消しました。マルタのゴミ分別はEU加盟後に始まったそうです。
 余談ですが、スロベニアの首都リュブリアナでは街の通りに調和した素敵なデザインのゴミ箱が整然と並んでいた光景を思い出しました。
 マルタ政府はアウラやブジェット等々でリゾート開発を進めているそうです。日本風に言うならリゾートマンションといったアパートも多いようです。ジュンコは、「昔は別荘として購入した人もいる」と言います。しかし、今では高く庶民には手が出ないとか。
 17世紀くらいまでは、マルにも塩田があったと云います。ジュンコ曰く「今は造っていない」そうです。しかし、ゴゾでは今でも塩田の営業を続けているところがあるとか。塩造りは、雨の降らない乾季に作業するそうです。塩の土産もあるそうです。
 ペルーのマチュピチュに行った際にも有名な棚田のような塩田を訪れたことがあります。そこでも塩の土産物が数多ありました。塩そのものや塩の化粧品等々、女性陣には人気があったと記憶しています。
 マルタには聖パウロの町もあります。パウロのお祭りが盛んなようです。パウロは遭難してマルタ島近くの小さな島に漂着したと聖書は伝えています。小さな島は実は岩が二つと云う説もあります。聖ルカが聖書に記述しているそうです。
 この町をジュンコは「シュムシー」?と言っていたような・・・。この「シュムシー」とは太陽の意だとか。
 マルタには多くのマリーナがあります。しかし、マリーナにボートを繋留するのはお金持ちだけだとか。一般の人が舟を止める岸が別にあるのだとか。一般庶民は舟を岸に繋がず、海上に止めるのだそうです。庶民は盥のような舟を漕いで、自分の舟まで行くのだと云います。ジュンコは「一般庶民は夏しか舟に乗らない」のだと言います。彼等は海に浮かぶ自分の舟を器用に見つけるとジュンコも笑います。
 丘の上に城が見えました。ジュンコが「サルムーン城」?だと教えてくれました。18世紀に騎士団が築城したものだとか。
 バスはマルタの北西、魚の尻尾のような部分に入ってきました。面積の一番狭いエリアです。時間帯によって北東の海や南西の海を見ることで時化の具合が分るのだと云います。フェリーが揺れるか否か、この海の波を見れば判断がつくそうです。もちろん、凪いでいれば揺れません。
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