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Channel: 私の高橋真梨子論
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■屋久島16

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 白谷雲水峡の「もののけ姫の森」往復トイレッキングは都合3時間ほどでした。雨は強くなったり弱くなったりで止むことはありませんでした。しかし、雨が苔むした森を一層際立てて美しいものにしてくれました。太宰でしたか「富士には月見草が良く似合う」といった文章がありますが、「屋久島の森には雨が良く似合う」のではないでしょうか。
 そういえば、この往復の途次、若者が歩道ではない立ち入り禁止の場所に足を踏み入れていました。「そこは歩道ではない」と云う熟練氏の注意を聞き入れず、近道宜しく坊弱無人の行動です。こういった心無い観光客の行為が無垢な自然を破壊するのかも知れません。
 駐車場で少し休憩してバスで次に移動です。雨の中のトレッキングで衣服も濡れ、体も冷えたので温泉はどうかと云う声もありました。一方、土産も物色したいと云う声もあり、結局マキとバスガイド氏の相談で土産物店に直行となりました。
 土産物店は大きな造りで2Fにはレストランがあります。レストランの奥には座敷もあります。この座敷を借りて着替えが出来ました。僕は特に着替えとて持参していませんので皆さんが着替えている最中、土産を物色したりレストランのメニューを冷やかしたりしていました。
 バスガイド氏が「屋久杉の民芸品の値段に気を付けて」といった趣旨の注意を喚起していましたが、確かにものによっては数十万円~百万円以上の値札がついた民芸品も並んでいました。ガイド女史は「屋久杉で作った箸が人気です」と云います。
 僕も二度とは来ないかも知れない屋久島の記念に何か買い求めたいと思いました。そこで、箸等を物色した結果、手頃な箸と日本酒用のお猪口を選びました。お孫さん連れのご婦人は留守番している孫たちようにと、たくさんのお土産を買い求めておられました。
 ちなみに屋久島は、ガジュツやウコンなどの薬草を多く産出し、薬の島とも呼ばれているとか。中でも「胃腸薬 恵命我神散のふるさと」だとガイド女史が言います。江戸の藩政時代、屋久島を管理した屋久島奉行所の規模帳に黄蓮、笹、薩摩人参、マクリ(海草)、鹿茸(動物生薬)などが記載されているそうです。これらは森林・海洋など豊かな島の自然環境に育てられたものですが、島津藩はこれらを屋久杉とともに管理下におき、専売品として移出していましたと云います。
 ガジュツと云うのは、熱帯アジアを原産とするショウガ科植物の根茎で、中国明時代の生薬研究の書「本草綱目」にも上薬として収載され、古来より珍重されてきましたそうです。わが国への渡来の歴史ははっきりしませんが、関ヶ原の戦いで猛将としてその名を馳せた薩摩藩主島津義弘公が、1603年(慶長8年)種子島家の十六代当主種子島久時公にガジュツの薬方を伝授したとの記録があると云います。 以来、明治に至るまで種子島・屋久島の重要な産物(御禁製品)としての扱いを受けていたことが諸文献に明らかにされているとか。
 ガイド女史曰く「たんかんが美味しい」とか。僕は「たんかん」と云うのは初耳でした。
「たんかん」とは、「ポンカン」と「ネーブルオレンジ」の自然交雑で出来た柑橘系の果物で、中国広東省原産だと云います。その風味はオレンジに似ているのですが、柑橘系の果物の中では一番糖度が高く、また、たっぷりの濃厚な果汁にはみかんの約2倍のビタミンCが含まれているそうです。収穫時期は2月中旬から3月上旬で、1年でこの時期にしか食べられない最高品質のフルーツとして、たいへん人気があると云います。

■屋久島17

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 専用バスで屋久島空港に着いたのは17時少し前だったでしょうか。楽しいベテランバスガイド女史とはここでお別れです。彼女は様々な屋久島情報を提供してくれました。屋久島が日本で4番目に大きな島であることや九州最高峰の宮之浦岳を擁すること等々屋久島の歴史、自然に対する彼女の造形の深さを感じさせます。
 屋久島からは種子島が遠望出来ます。屋久島はほぼ円形の島ですが種子島は長方形です。そして、屋久島は山岳等ですが、種子島は平地です。ちなみに種子島は屋久島に次いで日本で5番目に大きな島だとか。ガイド女史曰く「橋で本土と繋がると島ではありません」とか。したがって、淡路島等は本土と橋が掛かっているので「島」ではないのだとか。
 種子島にはJAXA、宇宙センターがあります。あの「はやぶさ」騒動で一躍全国区に躍り出ました。1969年、旧宇宙開発事業団の発足とともに設立された種子島宇宙センターは、日本最大のロケット発射場です。種子島東南端の海岸線に面しており、世界一美しいロケット発射場とも謳われます。
 このセンターは、我が国のロケットや人工衛星の打ち上げを担う施設です。施設内には、大型ロケット発射場、衛星組立棟、衛星フェアリング組立棟、北方には「増田宇宙通信所」、西方に「宇宙ヶ丘レーダステーション」「光学観測所」などの追跡設備が整備されています。
 「種子島にはゴルフ場もあります」と女史は云います。種子島観光の目玉は「ロケット発射とゴルフ」だとか。ちなみに白谷雲水峡を案内してくれた若手ガイド氏の実家が種子島だそうです。彼の部屋の窓からは宇宙センターが間近に見えるそうです。「ロケット発射見物なら僕の部屋がお勧めです」と彼は皆を笑わせていました。
 帰りの飛行機には未だ時間があります。ガイド女史が「自動車教習所ではありません」と笑わせたほど小さな空港です。マキが搭乗20分前にはゲートに集合を指示して一旦解散です。
 ロビーの奥に小さな食堂がありました。僕はとりあえずビールでも呑んで時間を潰すことにしました。肴は唐揚げにしました。僕がビールを呑んでいると、一人二人と同行の面々がやって来ました。女性陣はケーキやドリンクバー、男性陣はアルコールを注文します。店はセルフ式で、食券を買って窓口に出す形式です。厨房は、こんなに一篇に客が来たことはないといったた忙しさではないでしょうか。
 マキが「好評なので秋にも企画したい」と宣言します。しかし、「同じコースなら参加しない」と云うのが僕達の多数意見でした。宮之浦岳登山を希望する声もありました。確かに僕も今一度縄文杉往復12時間コースは願い下げかも知れません。
 僕が「4月は浅間山と浅間温泉」と話をしているそばから、マキが「4月の浅間は催行中止」と出鼻を挫く情報を入れてくれました。楽しみにしていたので残念ですが、仕方ありません。
 定刻になりセキュリテイを抜けてゲートに進みます。屋久島から鹿児島空港へは30分ほどのフライトです。ほぼ定刻に鹿児島到着です。ここで、縄文杉で負傷されたご婦人とお別れです。聞けば4月にはオリエント急行の旅に出られるとか。足取りも元気でした。
 羽田にも定刻の到着です。手荷物として預けたトレッキングポールを受け取って帰路に着きます。お世話になったマキ達に挨拶して到着ロビーを抜けます。二泊三日の屋久島ツアーも大団円です。

■真梨子紀行118

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 いよいよ今日です。「高橋40年」。真梨子さんのコンサートツアー2013が始まります。例年通り川口リリアで幕を開けます。今回は正月メキシコツアー等々あり、ファンクラブの優先予約を忘れてしまいました。気がついたときはあとの祭りです。しかたなくファミマで一般仕入れです。手数料なども色々取られて何とか手に入れましたが、席は2階席です。
 2階9列51番。HPで確認するとステージ右サイドの端で、あまり良い位置ではないかも知れません。まあ、仕方ありませんが真梨子さんの元気な歌声が聞ければ満足です。また、ニューアルバム「高橋40年」や昨年ツアーのDVDを買い求めるのも、ひとつの目的なので良しとしましょう。
 例年のことですが、ツアー直前に真梨子さんのメデイア露出の機会が増えます。
TBS「火曜曲!」
  6月11日(火) 21:00〜21:54
 ゲスト出演「桃色吐息」「遥かな人へ」歌唱

NHK BSプレミアム「吉田拓郎 YOKOSO」
  6月12日(水) 22:00〜23:00
 ゲスト出演


TBS「はなまるマーケット」
  6月4日(火) 08:30〜
 「はなまるカフェ」コーナー出演予定


フジテレビ「めざにゅ〜」
  6月3日(月) 04:00〜05:25
 「ハマ♪SONG+」コーナー出演予定


スペースシャワーTVプラス「高橋真梨子スペシャル」
  6月4日(火) 22:00〜22:30
 ミュージックビデオ特集
 【再放送】6月10日(月)25:00〜 6月22日(土)26:30〜


テレビ朝日「徹子の部屋」出演予定
  6月7日(金) 13:20〜13:55


テレビ朝日「やじうまテレビ」
  6月24日(月) 04:55〜08:00
 特集インタビュー放送予定


NHK Eテレ
  「ミュージック・ポートレイト『高橋真梨子×萬田久子』」

[第1夜]2013年5月30日(木) 夜11:25〜11:55
     (再)6月6日(木) 午前0:30〜1:00

[第2夜]2013年6月6日(木) 夜11:25〜11:55
    (再)6月13日(木) 午前0:30〜1:00
ってな感じです。
 万田さんとの番組は録画しました。万田さんは時折、真梨子コンサートに顔を見せますが、いつ見ても、これぞ女優というオーラ満載の美しさです。池上きみこさん(名前の字は忘れました)も真梨子コンサートに「姿を見せることがありますが、やはり女優かくありんなといった美しさです。
 池上さんは真梨子さんの出世曲となった「桃色吐息」がイメージソングとして使われたカメリアダイアモンドのCMに出演していたそうです。このCM、主に深夜に流されることが多かったとかで早寝早起きを標榜する小生は見た記憶がありません。
 当時、真梨子さんは「シングルの売れない高橋真梨子です」と言って会場の笑いを誘うことが多かったように思います。これは裏返せば、「シングルは売れないがアルバムは着実に売れている」ということです。シングルヒットがない中でアルバムは出せば10万枚程度は確実に売れたと云います。事実、ソロになって3枚目のアルバム「Monolog」はヒットチャートのトップ10に入る健闘を見せていました。真梨子さんの実力は着実に世間に浸透していたように思うのですがね・・・。
 「高橋40年」はCD3枚組です。最初の1枚には「高橋真梨子の40年を語るのに外せない全16曲 」が収録されています。
1.ジョニィへの伝言
2.五番街のマリーへ
3.別れの朝
4.あなたの空を翔びたい
5.アフロディーテ
6.for you…
7.桃色吐息
8.グランパ
9.はがゆい唇
10.Sincerely
11.ごめんね…
12.海色の風〜君住む場所へ〜
13.フレンズ
14.連絡
15.ラスト・メール
16.The Road
 「ジョニィへの伝言」「五番街のマリーへ 」は言わずと知れたカプリシャス時代の大ヒット曲です。紅白歌合戦にも出場して、真梨子さん(当時は高橋まり)が2代目ボーカルとして不動の位置を固めた作品だと思います。
 「別れの朝」は同じくカプリシャスの曲ですが、これは初代ボーカル前野曜子が歌ってヒットしました。当初、真梨子さんは、「これは私の歌じゃない」と言うことに抵抗があったようですが、コンサート会場等で多くのリクエストがあり今や真梨子さんの立派なスタンダードになっています。
 ちなみに今回のアルバムで「.五番街のマリーへ 」は英語詞で「Fifth Avenue」として録音されているとか。確か、2000年だったでしょうか「MARIKO in the BOX」コンサートとで「Fifth Avenue」が披露されていると思います。とてもJazzyなアレンジで良い作品に仕上がっていたことを覚えています。
 切がないので、今日はこれくらいで・・・。
 

■真梨子紀行119

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 「あなたの空を翔びたい 」。真梨子さんのソロデビュー曲です。尾崎亜美の作品です。ただ、詞は当時のセゾンG総帥・堤清二氏が補作詞に当たっています。この曲が世間に流れる頃、小生は真梨子さんの虜になっていました。ソロデビューアルバム「ひとりあるき」を探して浅草のレコード店を、虱潰しに当たったことが昨日のことのように思い出されます。
 「アフロディーテ」はグリコアーモンドチョコレートのCMソングです。真梨子さんがどこかで語っていましたが、「結婚式で良く歌った」そうです。当時のトップアイドル山口百恵と三浦友和共演のCMだったと思います。ただ、小生の好みで言えば、同時期の作品であれば「ハート&ハード~時には強く時には優しく」が好きです。こちらは、いすず最後の乗用車ジェミニのCMソングです。ジェミニも結構良い車だったので印象に残っています。
 ああ、そろそろ川口に出かけねばなりません。17時開場です。少し早めに行って、混まないウチにニューアルバムやDVD、グッズをゲットしたいと思います。グッズは今回もスポーツタオルを買いましょうか。本当はバスタオルがあると良いんですが・・・。
 続きは、また・・・。

■真梨子紀行120

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 いやー良かったです。川口リリア大盛り上がりでした。半年ぶりの真梨子さん、元気でなによりでした。色々、ありますが、まずは箇条書きで気づいたことを押さえましょう。
1.オープニングで登場したまりこさんは真っ赤なドレス
2.桃色吐息がニューアレンジでGood、ヘンリーさんと万照氏が遼サイドで大きな太鼓叩いてた
3.陽かげりの街もラテンアレンジ、万照氏がラテン風ドラム演奏
4.時々、万照氏のパートがない、一時ステージから姿が消えました
5.途中、珍しく10分休憩
6.休憩前のヘンリーバンドプレイはオリジナル曲の演奏、オジサンダンスも入って会場と一緒に大盛り上がり
7.休憩中は真梨子さん、40年の軌跡がビデオで流れています
8,2部の真梨子さんの衣装はミニドレス
9.アンコールでは、真梨子さんのスカートに40年のシングルとアルバムのジャケットが全てプリントされていました
10.さて、楽曲ですが、今回は流石に全てオリジナルです
ジョニィへの伝言、五番街のマリーへ (Fifth Avenue)、陽かげりの街、メドレー(ハート&ハード時には優しく、はがゆい唇、So in Love、枯れない花)、遥かな人へ、アナタの横顔、for you… 、ヒ・ラ・ヒ・ラ淫ら、ラスト・メール、真っ白いシャツ~Lonely girl Lonely boy、フレンズ、New York, New York、心のメッセージ 、グランパ、ごめんね…、Thanks
だったでしょうか。開場に披露された楽曲の一覧がTVに映し出されていたのですが、スマホのバッテリーが乏しく撮ることが出来ませんでした。
 では、続きは後ほど・・。

■真梨子紀行121

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 川口リリアに16;30過ぎに行くと、既に開場を待つ行列が出来始めていました。早速、小生もこの列に並びました。すると、ロビーの右奥で何やら販売している様子です。覗いてみると真梨子さんのニューアルバムとDVDを販売していました。会場で当然、販売されるのですが、混雑するので開場前の時間限定販売を実施しているようです。
 「高橋40年」DVD付きの限定版と昨年のツアー「Re:So Fine」のブルーレイ版を購入しました。コンサート特典で真梨子さんのトートバッグをもらいました。
 開場は17;00予定でしたが、少し早く開けたようです。ロビーに入って今度は真梨子グッズを物色します。スポーツタオル(今回のコンサート記念の)とクッションバッグを買い求めました。これで、本日の目的の半分は達成です。後は真梨子コンサートを堪能するばかりです。
 2階席のロビーに上がると、人は未だ疎らです。窓側のベンチに腰を下ろしましたが、喉が渇きます。自動販売機でカフェオレを買いました。110円です。そして、席を確認します。2F9列51番です。2階席の右端、前から2列目です。そして、席も端ではなく端から2番目です。
 開演10分くらい前に席に着きました。小生の左右の席も「お一人様」でした。そして、いずれも女性でした。女性一人で来ると云うのは真梨子さんの大ファンなのでしょう。ファンクラブでしょうか。小生同様、優先予約を逸したのでしょうか。
 定刻より少し遅れて会場の灯りが落ちて幕が開きます。盛大な拍手が鳴り響く中、舞台中央に真梨子さんの姿が浮かび上がります。ステージ中央にヘンリーバンドの面々がコンパクトにまとまって配置されています。昨年のコンサートではサックスの万照氏の位置が左でしたが、今回は例年通り右に戻っていました。
 左からコンサートマスター宮原さん、その後ろにギターの藤井さん、隣にベースの小川さん、最後尾がドラムの山下さんです。右側は前列が万照氏でその後ろがヘンリーさん、そして小松崎さん、最上段はパーカッションのマロさんです。万照氏曰く「ヘンリーバンド35周年」だとか。平均年齢も「52,2548・・・」だと云います。35年と云えば、真梨子さんのソロデビュー以来ということになります。当時からのメンバーはヘンリーさんと小松崎さんだけです。万照氏は「25年」やってるそうです。たぶん、藤井さんやマロさんも同じくくらいでは・・・。ヘンリーバンドのメンバーは当初、固定されたものではなかったように思います。ヘンリーさんが「セッションマン」と言っていたスタジオミュージシャンが都度寄り合う形式のバンドだったと思います。それが、真梨子さんの音楽活動のスタイルが確立されていくに従い固定されていったのではないでしょうか。
 舞台中央にスポットが当たって深紅のドレスに身を包んだ真梨子さんの登場です。オープニングは「ジョニィへの伝言」です。今は亡き阿久悠の作品です。生前、自作の中で3本の指に入ると語っていた彼の傑作のひとつです。真梨子さんはこの作品で紅白にも出場し、カプリシャス2代目ボーカルの位置を不動にしたことは周知の通りでしょう。
 先日のEテレ「ミュージックポートレート」で真梨子さんはソロデビュー後、4年くらいシングルヒットに恵まれまかった苦悩を語っています。そんな葛藤もあって一時期、カプリシャス時代のヒット曲を封印した時期もあったように思います。しかし、今ではそれも吹っ切れて「ジョニィへの伝言」なども真梨子スタンダードとして歌ってくれるのは嬉しい限りです。真梨子さんを評して阿久は「乾いた官能」と明言を残しています。真梨子さんの「桃色吐息」や「はがゆい唇」等、きわどい歌もいやらしくなくカラット歌ってしまう清潔感を見事に表現しているように思います。
 次に「五番街のマリーへ」をジャズ風にアレンジして英語詞で歌う「Fifth Avenue」です。この歌を聴くと真梨子さんの源流がジャズにあることが良く分ります。真梨子さんの父君はジャズミュージシャンでした。国鉄に勤める側らプロミュージシャンを目指していました。真梨子さんが生まれた頃には国鉄を辞めて博多に移りプロとして活動し始めていたのではないでしょうか。真梨子さんは14歳の頃、ザ・ピーナツに憧れて本格的に歌手を目指します。そこで、父君より徹底的にジャズを仕込まれたのです。尤も父・月夫さんは真梨子さん15歳のときに亡くなります。36歳の若さだったと云います。やはり広島での被爆による後遺症だったかも知れません。
 3曲目は「陽かげりの街」です。編曲が新鮮です。産経新聞は「ラテン風」と評しています。曰く「ギターソロが光る」と指摘しています。リードギターの藤井さんのパフォーマンスが確かに素晴らしいものがあります。真梨子さんはカプリシャス時代、多くのラテンも経験しています。ラテンサウンドはジャズと並んで真梨子さんのもうひとつのルーツだと思います。

■真梨子紀行122

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 3曲歌い終わって、真梨子さんにピンスポが当たり恒例のMCが展開します。MCと云うのは「master of ceremonies」のことで、本来は司会者のことですが、これが転じて、コンサートなどで、演奏の合間に演奏者が話をすること、またはその時間を指すようになったようです。
 毎年、真梨子さんはコンサートツアーの開始前後でメデイア露出が多くなります。今年も色々な番組に登場するようです。先日は「徹子の部屋」に登場したとか。生憎、小生は見ておらず、録画も逸しています(残念)。番組にはヘンリーさんも出演したようです。真梨子さん曰く「ヘンリーさんに対するヒットがトップ」になったとか。ヘンリー、Who?でネット検索した人々が大勢いたのでしょう。ヘンリーさんも一躍時の人といったところでしょうか。
 TBSの歌謡曲という番組を始めて見ました。真梨子さんが出るまでNHKニュースウオッチ9と交互にチャンネルを代えていました。前半は、ほとんどAKBネタで全く興味がありません。江角が司会してたのはサプライズでした。小生、結構、江角ファンです。MCで真梨子さんやAKBやら江角との絡みに言及していたのですが、放送ではほとんどトークなしで真梨子さんの紹介ビデオと歌だけでした。楽曲は2曲「桃色吐息」「遥かな人へ」でした。真梨子さんが言う様に化粧崩れしたので、カットされたのでしょう。
 今日は、ここまで・・。

■真梨子紀行123

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 江角さんと真梨子さんは初対面だったようです。江角さん、結構「真梨子ファン」のようです。曰く「桃色吐息は歌詞カード見ないで2番まで歌える」そうです。「はがゆい唇」のビデオにも「この歌良いわ」といった感じでウットリ化でした。中居君も少しテンション高めだった感じですが、彼と真梨子さんはスマスマ等で何度か共演していると思います。
 さて、川口リリアのステージです。「桃色吐息」のアレンジが良かったです。産経新聞は「エンヤ風」と称しています。「エンヤ」とはケルト音楽を下敷きに独自の音楽を展開する女性ミュージシャンのことであることは言わずもがなでしょう。アイルランドを拠点に活動する彼女の独特の音楽世界はグローバルに多くの人々に感動を届けています。アイルランド等は古代ローマに手が及ばなかったことで土着のケルト文化を現代まで伝承しています。ケルト7千年の歴史の重みが我々の心の奥底に響くのかも知れません。
 ヘンリーさんと万照氏がステージの両サイドでドラムを叩きます。宛らケルトの人々が神に祈りを捧げる雰囲気を醸し出しています。テンポも心なしかゆっくりしています。ギリシャのエーゲ海あたりをイメージした歌が、北の北海に引っ越したような感じです。アイルランド等の厳しい自然の中でも「桃色吐息」が熱く燃えます。今回の編曲は大成功だと思います。ただ、恒例の「Like Flower・・・」と云う英語詞は入れて欲しかったと思います。
 昨晩はNHKプレミアムで真梨子さん、拓郎とのトーク番組に出演でした。録画したので後でゆっくり鑑賞したいと思います。冒頭、少し見ていましたが、拓郎が「五番街のマリーへ、のここは高橋真梨子にしか歌えない」と絶賛していたフレーズがあります。「さっしてほしい」です。拓郎曰く「男言葉だよね。これを当時23,4の女の子が歌えるか」と述懐していました。彼と真梨子さんは真梨子さんが27歳の頃に一緒に呑んだことがあるとか。真梨子さん曰く「フォーライフに入るはず」だったとか。しかし、願い叶わず真梨子さんはビクター所属となりました。拓郎は「それで良かった。フォーライフだったら大変なことになった」と笑わせていました。
 川口のメドレーで「so in love」が披露されました。小生の大好きな1曲です。オフィスコーヒサーバー等を生業とする企業のイメージソングとしてCMでも良く流れていました。この作品、唯一真梨子さんのアルバムに入っていない貴重品です。尤も、シングルコレクションには入っているかも。ライブで聴くのは久しぶりです。
 続きは、また・・。

■真梨子紀行124

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 今回のステージで気になったのは、万照氏が何度かパートから外れていたことです。ヘンリーバンドのメンバーは彼に限らず色々な楽器をこなします。昨今は、万照氏もギターを弾いたり、太鼓を叩いたりとサックス以外の楽器を器用にこなします。しかし、「遥かな人へ」やその他の曲では楽器を演奏しない場面もあり、部隊から姿を消している時間もありました。何かあったのでしょうか・・・。
 へんりーさんが漏らしていましたが、昨年真梨子さんがフィレンツエに行ったのはイワタニの招きだったようです。イワタニがかの地で何かの社内イベントを挙行し、そこに真梨子さんが招かれてミニコンサートを実施したということのようです。このフィレンツエの模様はNHKのSONSがしっかり特集していたので、ご覧になった方も多いと思います。
 イワタニは岩谷産業といったほうが馴染みがあるかも知れません。現在のトップは会長兼CEOが牧野明次さん、社長は野村雅男さんです。このお二方、昨年の真梨子コンサートに足を運んでおられたようです。たしか、万照氏がプレゼントコーナーで暴露していたような・・・。ああ、そういえば、ここ数年恒例となっていたプレゼントコーナーが今年はありませんでした。休憩時間があるからでしょうか・・。
 イワタニは小生等はガス会社のイメージが強いです。日本酸素と並んで業界のトップを争う大手企業です。しかし、HPを見ると色々と多角的経営に舵を切っているようです。
 コアビジネスは4つです。1.総合エネルギー事業2.産業ガス・機械事業3.マテリアル事業4.自然産業事業です。小生はかつて工場勤務だった際、岩谷から溶接用の酸素やアルゴンガスを仕入れる担当を経験したことがあります。
 売上高は2012年度6,570億円だとか。株価は481円くらいです。今度、業績や配当性向等検討して保有銘柄に入れるか否か検討してみたいと思います。真梨子さんを応援しおてくれる企業なので、真梨子ファンとしては株主として応援したい気持ちもあります。
 話が逸れましたが、万照さんはヘンリーバンドプレイでは元気溌剌でした。『Another Tomorrow』です。今回、ヘンリーバンドとしてCDをリリースしています。万照氏が「聞きたい?」と会場に問いかけます。もちろん開場は「聞いたい」と大拍手です。
 この曲、オリジナルなのでしょうか。CD買っていないのでわかりません。ちなみに価格は1,000円です。元気がでる応援ソング♫と云う振れ込みですが、なかなかのコミックソングです。万照氏、渾身のダンス指導もあって会場は大盛り上がりでした。

■真梨子紀行125

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 「拓郎のYOKOSO」の真梨子さんを録画して繰り返し拝見しました。最初に見た際は「真梨子さんは、あいかわらず」と微笑ましく思いました。真梨子さんは、ご本人が何度も述懐するようにトークは苦手だと実感する場面が少なくありませんでした。拓郎さんの質問に真梨子さんが熱く答える様子は熱意が空回りしている感じがありました。また、内容も迂遠で最後まで聞かないと何を言っているか分からない状態です。でも、こいういう女性は世間に五万といるでしょう。ビジネス会話になれた小生等には、つい「話は結論から」と注意したくなります。
 しかし、何度も録画を見直しているうちに、「これこそが真梨子さんの魅力」と再発見の思いでした。最初はまだらっこしい話し方も愛嬌に感じます。また、話の内容もけして的外れでもありません。こもあたり拓郎さんは、どう感じてしたのでしょう。
 それにしても拓郎さんの感性には驚かされました。彼は「五番街のマリーへ」の大ファンで、特に「察してほしい」のフレーズが絶品だと云います。確かに言われてみれば、当時24歳の女の子だった真梨子さんが、この詞をどう解釈したのか興味深いところです。真梨子さん曰く「私にどう解釈しろって言うのよ」と思ったそうですが、難しい詞だったことは事実でしょう。しかし、これをさらっと歌えるのが高橋真梨子の天性なのだと思います。この作品に限らず真梨子さんは性的な表現だったり、失恋の深い悲しみだったり様々な歌をさらっと歌ってしまいます。時折、真梨子さんは「歌にのめり込まない」というようなことを語っています。それこそが、「察してほしい」が歌える由縁にように思います。つまり、真梨子さんは自分で解釈するのではなく、聴き手に解釈を委ねているのです。真梨子さん自身は、そんな風には思っていないでしょう。しかし、真梨子さんの歌に説得力があるのは聴き手一人ひとりが、それぞれに解釈できる世界を伝えられるからだと思っています。聴き手は真梨子さんの発信を大げさに言えば己の人生と重ねあわせて生きる力に変えているのです。草花が二酸化炭素を酸素に変えるようように我々の心の光合成が真梨子さんの歌を元気に変えているのです。
 久しぶりに拓郎さんの歌声を聴きました。「Voice」って良い歌です。ぜひ、マスターしてカラオケしたくなりました。拓郎さんは年を重ねて性格は丸くなったかも知れませんが、歌には渋みというか重厚さが加わったし、音楽的にも洗練されたようです。機会があれば吉田拓郎のライブも鑑賞に値すると感じました。ただ、真梨子さんとはファン層が異なるので、コンサートの雰囲気に押されそうな危惧はあります。
 それにしてもヘンリーさんの真梨子さんへの献身、真梨子さんのヘンリーさんへの信頼は羨ましい限りです。我が家も、こんな風だったら、さぞかしと思ってしまいます。ミュージシャンであり、プロデユーサーであり、フォトグラファーも務めるヘンリーさんは多才です。ソロデビュー以来、真梨子さんを支え続けています。真梨子さん自身が語るように更年期障害を乗り越えて今なおコンサートを続けていられるのはヘンリーさんの存在なくして語れないでしょう。当時へんりーさんは「いつやめても良いよ」と真梨子さんに言ったと云います。若いときの真梨子さんは「いつでもやめてやる」と突っ張った悪い子だったようです。しかし、このへんりーさんの言葉を境に「出来る限り長く歌いたい」モードに変換したのでしょう。拓郎さんともども、ヘンリーさんが真梨子さんの最高の旦那さんだと認識しました。
 Eテレの「ミュージックポートレイト」も何度も見ました。こちらはあこがれの拓郎さんとの対談で舞い上がっていた真梨子さんとうって変って親友・万田久子との大人の女子会になっています。真梨子さんの述懐にあらためて歌手・高橋真梨子にはお父上の影響が大きいことが分かりました。浜田金吾との大失恋の思い出も語ってくれました。何より大発見は、万田久子夫妻が高橋真梨子母娘を献身的に支えたエピソードです。万田の事実婚のパートナー「リッキー」さんは真梨子さんの「for You・・」をカラオケで歌うのが大好きだった云います。万田の話を聞けば聞くほど男として羨ましいほどの人生を送った男だと思いました。残念なことに昨年?60歳で逝去されています。やはり良い男は早死になのでしょうか。

■ジュンコ

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 食後、中庭で記念の写真を2枚撮りました。建屋に戻り屋内プールを探したのですが不調に終わりました。まさか、中庭のプールだけかと訝しく思いました。
 部屋に戻って、観光に持って行く荷物を整理しました。モモ曰く「傘、上着、日焼け止めを忘れずに」とのこと。多分に女性向けの注意にも聞こえますが、とりあえずリュックに詰めました。
 部屋のバルコニーから眺めが良いので写真を1枚撮りました。時刻は8:36くらいです。集合時刻が近いのでロビーに下ります。
 今日から最終日までお付き合い頂く現地ガイドは日本人女性のヤナイジュンコさん。ヤナイさんとはユニクロの社長と同じ姓です。山口県のご出身でしょうか。生憎、確めることはありませんでした。
 マルタ島がマルタ共和国として独立したのは、先にも触れたかも知れませんが、1974年です。英国から独立して、今でも英連邦の一員です。マルタの領土は幾つかの島々から成るようですが、人が住んでいるのはマルタ本島以外にはゴゾ島とコミノ島だけです。
 ジュンコ曰く「人口416万人、95%はカトリックでマルタには400の教会がある」とか。公用語はマルタ語と英語です。ジュンコに因れば「マルタ語はアラビア語に近い」そうです。「朝はボンジュール、夜はボンソア」といった仏語的な響きの挨拶が交わされるとか。
 マルタはシチリアから100kmほどの地中海中央に浮かびます。治安は日本と遜色ないくらい安全だと云います。
 初日の観光はブルーグロット「青の洞門」から始まります。僕達は専用バスで「青の洞門」に向かっています。車中、ジュンコが様々なマルタ事情をガイドしてくれます。
 曰く「車は右ハンドル、左側通行」。これは英国領だった影響で日本と同じです。ちなみに日本は、なぜ左側通行なのでしょう。よく、言われるのが「侍が刀を身に付けていたのが左側の腰だったので、右側通行になると侍同士がすれ違うときに刀が触れ合ってトラブルになる」ので日本では左側通行になったとか云われます。しかし、実際は日本の交通制度がイギリスの交通制度を参考にしたため、右側通行になったのが事実のようです。日本もマルタ同様、英国の影響を受けたようです。明治維新後の日本は当時の強国だった英国との関係を深めています。日露戦争に日本が勝利出来たのも英国のお蔭です。
 ジュンコ曰く「道路はあまり良くない」そうです。「信号ではなくロータリーが多い」とも云います。「渋滞も多い」とか。マルタの車の台数は30万台ほどと随分と多いと云います。
 産業は、なんといっても観光です。「若い人は、一人暮らしはしない」とジュンコは云います。どうも若い時分は島の外に出て、結婚すると島に戻って永住すると云うのがマルタ人の習慣のようです。
 公共交通はバスだけで鉄道はありません。タクシーは観光用だと云います。バスはトンネルを幾つも潜って「青の洞門」を目指します。

■ブルーグロット

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 バスのドライバーはレイモンドさんです。マルタの初日は快晴です。当に抜ける様な青い空と云う形容がピッタリです。如何にも地中海の空といった雰囲気満載です。最初の観光は繰り返しになりますが、ブルーグロット「青の洞門」です。
 ホテル出発は9時でした。今朝の地中海は波が高く洞門を巡る小舟は欠航の危惧もありました。小舟の船着き場に行く前に展望台から「青の洞門」を眺めました。展望台に着いたのは9:40頃です。
 「青の洞門」は、自然の洞穴が水中の植物相の輝く発光色を鏡のように映し出しています。地理的には、ズリーの町の南端「Wied iz-Zurrieq」近くに位置しています。最大のブルーグロットを含む、いくつかの洞穴には、Wied iz-Zurrieqからボートで行くことができます。Wied iz-Zurrieqからは、Filfaの小さな島を見ることもできるとか。フィルフラは、そこで生きるトカゲのユニークな種を除いて無人です。マルタが英国の植民地であった時代には、フィルフラは英国空軍の演習のターゲットでした。現在は、島はマルタの法律で保護されています。この島の周囲の風景は、息を飲むほど素晴らしいそうです。崖が青い地中海から立ち上り、岩を打つ波の泡が優れたショットを見せてくれると云います。
 ブルーグロットは、マルタ観光の定番中の定番。ほぼ全ての語学学校でブルーグロットに訪れるアクティビティが用意されていると云います。語学学校によってはウェルカムイベントに含まれているところもあるとか。
 マルタ名物のダブルデッカーバス(二階建バス)のルートになっているので比較的簡単に行くことができます。ダブルデッカーバスは語学学校を通して申し込むとお安くなることもあるので要チェックだとか。ボートの料金は7ユーロ。20~30分ほどかけて数か所の洞窟を巡ります。ボート乗り場へは急な下り坂が続きます。「行きは良い良い帰りは怖い」。でもご心配なく。坂を登り切った先には数軒のレストランがあり、屋上のテラス席からは絶景を眺めながら、マルタの地ビール「CISK」で渇いたのどを潤すことができると云います。イタリアの青の洞窟よりも綺麗という噂もあるとか。
 10時頃、ブルーグロットの船着き場到着です。駐車場でバスを下車してボート乗り場に向かいます。坂を道なりに下るとボート乗場です。途中にトイレがありました。
 船着き場には9人乗りのモーターボートが何隻も姿を見せています。これに分乗してブルーグロットを巡ります。波で揺れているので乗り降りに注意が必要です。僕も船頭さんの手を借りて乗船します。
 このボートが揺れること。救命胴衣は着けているものの、転覆するのではないかと思うほどの揺れです。船に掴まっていないと坐っていられない状態で、おいそれとカメラを構える余裕もありません。クロアチアのアドリア海クルーズも揺れましたが、これほどではありませんでした。
 洞門の岩陰に近づくと船頭が「60m」と叫びます。洞門を形成する岩の高さを教えているようです。「Very blue」。船頭が青い海面を指さします。

■マルタ石

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 更に船頭は「Window」「Elephant」等々叫んでくれます。自然の岩の洞門に窓があり、全体の姿が象のようだとガイドしてくれます。船頭の解説を聴きながら洞門の中をボートで巡ります。青い海の色は驚きの青さで素晴らしいものです。
 帰路は慣れたせいか、さほど揺れは気になりませんでした。海も聊か穏やかになったのかも知れません。このボートでの洞門巡りは約20分ほどです。
 船着き場に戻って、駐車場までの坂道を戻ります。道に面した土産物店等を覗きながら駐車場に戻ります。
 ジュンコの話ではマルタには「競馬場もある」とか。我々に馴染のある騎手が馬を追う競馬ではなく馬車競馬だと云います。「ベンハー」みたいな戦車競走を想像します。
 英国領だっただけあって「ゴルフ場もある」とか。「バンカ-が多く、勾配はすくない」とジュンコは言います。マルタにゴルフ場はひとつだけで「英国人のお金持ちがプレーする」ところだとか。その他、リタイアしてマルタに家を構える西洋人や観光客にも人気があると云います。
 マルタ空港の「滑走路は長い」とか。昔は欧州一の長さを誇ったと云います。かつては英空軍基地だったせいでしょうか。
 マルタは石灰岩の島です。バスの車窓から大きな穴が見えます。石切り場です。今では機械掘りが主流だとか。ジュンコ曰く「グロビジャリ、ライムストーン、ハニーストーン」等が産出されるとか。これが所謂マルタ石でしょうか。「マルタには山も川も森もない」とジュンコは言います。「一般の家も、この石で造ります」。
 ホテルも一部はマルタ石の使用が義務付けられているとか。建物の高さにも法規制があって、3階までだと云います。したがって、教会の塔でしょうか、これが最も高い建物になるそうです。
 マルタの住宅は所謂、長屋です。「同じ壁を使った二階建て」とジュンコは表現します。一般の住宅は「夏の太陽は入れない」のだとか。確かに地中海の日差しは強すぎて閉口します。これが一般の家で「一軒家は高級住宅」なのだとか。
 ちなみにマーケットは曜日ごとに場所を変えて開かれるそうです。市場は観光客向けではないので旅行者は昔ながらのマルタ文化およびライフスタイルの魅惑的な光景を見学できると云います。同時にお買い得品や本物の品物を買うチャンスでもあるとか。
 マルタは南北で景色が違うと云います。「南は断崖、北はなだらか」だとジュンコ。「南アフリカまで290km」ほどだと云います。所謂ザグレブ地方のチュニジア等とは太古から繫がりがあったようです。
 先に触れましたが、フィルフラ島はマルタと3.5kmの至近距離にあります。英軍がこの無人島で爆弾投下訓練をしていましたが、1974年3月に撤退しています。この無人島が駐車場前の断崖から良く見えます。
 バスに戻って、次はハジャーイム神殿に向かいます。

■ハジャーイム

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 ハジャーイムは紀元前3600年~3200年頃に築かれたと云われる巨石神殿の遺跡です。使われている巨石は大きなもので幅6.4m、高いものは5.2mにもなると云います。遺跡の正面から左手の外壁は浸食が激しく、荒々しい自然の巨石を利用したようにも見えますが、右手の入口付近の整然と積み重ねられた石組からは巨石を綺麗なブロック状に切り出して組み立てている様子がよく分かります。神殿内部に入ると巨石をくりぬいて造られた入口や装飾された壁の跡も見ることができます。
 マルタではハジャーイムのような巨石神殿がいくつか発見されていますが、建設方法は不明な部分が多く、小さな島でこれだけのものを造れる文明がどのように発達したのかも謎のままだとか。
 遺跡見学は普通に見るだけなら20分もあれば十分ですが、観光客も多く立ち寄る場所なので静かな遺跡を楽しみたければ、もう少しゆっくりと時間をとったほうが良いかも知れません。
 ハジャーイムは豊饒の女神に捧げられた神殿と考えられています。神殿内には儀式を準備する部屋や神託の部屋として使われたと推定される空間があります。
 マルタに人が住み始めたのは紀元前5200年頃と考えられています。シチリア等と同じく黒曜石を求めて人々が漕ぎ渡って来たのかも知れません。マルタには紀元前3600年頃から建造された巨石神殿が28か所あるとか。
 巨石神殿を残した人々は、農業を糧としていたのではないかと云われています。子供が生まれ、命が繋がる生命の循環を渦を巻いた文様で表現していると考えられています。また、ふくよかな女性のような人間像も描かれています。
 神殿から人骨は発見されていないそうです。そういう意味では神殿ではなく集会所だとう説もあるとか。発見された当時は何もなかったそうです。考古学者たちが倒れていた石を立て直し復元したのだと云います。
 ちなみに、「ハジャーイム」とは「立っている石」「聖なる石」といったマルタ語だとか。神殿は「祈りの場」だったという説が有力です。様々な生贄が供された跡が残っているそうです。豚や山羊、兎等々です。
 ジュンコ曰く「神殿の屋根はドーム型だったらしい」と云います。「6月21日オラクルホールから日が射し込み岩に当たる」とか。また、岩柱の間から島、フィルフラ島でしょうか、が見えるのも偶然ではないでしょう。
 太った女性のような像には首がありません。ジュンコは「女神信仰の象徴」だと言います。ただ、像に胸の膨らみはありません。体型は力士のようです。ジュンコ曰く「首は祭事等により色々と挿げ替えられる」とか。
 渦巻き文様は輪廻を表し、神官はオラクルホールの後ろから話をしたとか。そこには人間一人くらいの空間があります。神官は声を神殿内に反響させることでカリスマ性を増したのかも知れません。

■マルサシュロック

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 巨石神殿を後にして、マルタ島東岸の漁村マルサシュロックに向けてバスを走らせます。「マルサシュロック」の「マルサ」は「港」、シュロックは「地中海風」を意味するとか。中世にはオスマントルコが上陸し、ナポレオン全盛時代にはナポレオン艦隊の侵攻も経験しています。マルタでは二番目の規模を誇る自然の良港です。
 ジュンコ曰く「マルサという言葉は港のことですが、フェニキア語からきていて錨下ろす場所」のことだと言います。また、「シュロックはアフリカから着く場所」という由来もあるとか。
 港にはカラフルな漁船が数多繋留されています。オリシスの災難除けの目が船端に描かれています。船体の色は水色が多いようです。水色は聖母マリアの色で、カトリックが多いマルタでは船の色にすることが多いのだとか。
 この漁船は「ルッツ」と呼ばれるそうです。港には様々な土産物等を販売する屋台も並んでいます。ヌガーとか云うお菓子や民芸品、マルタワイン等々。太った女性像もあります。腹を手に当てている様子は妊婦を表現しているのかも知れません。
 ちなみに1989年、ここで冷戦終結のためのブッシュ、ゴルバチョフ会談が開催されています。屋台のマーケットにはマルタバスのミニチュアもたくさん並んでいます。レースやタピストリー等も少なくありません。地中海の島の特産品としてレースは特産なのかも知れません。キプロスでもダビンチが激賞したというレース製品が名産になっています。
 昼食はシーフードレストラン「タルタル」です。「タルタル」って「タルタルソース」の「タルタル」でしょうか。何の脈絡もありませんが、「タルタルはタタール人」と関係すると聞いたことがあります。あの「タタールの軛」で知られるジンギスカンの一族です。
 さて、昼食ですが、マルタ伝統のお魚スープやブエダイとエビのグリルにデザートです。テーブルは大阪ご夫婦と船橋おひとり女性と囲みました。生ビールも頂きました。中ジョッキ3ユーロです。
 トマト味のお魚スープは悪くありません。メインのグリルは日本と味付けが違うせいでしょうか、あまり美味くありません。味付けはチュニジアあたりのものに近いのではないでしょうか。デザートはシャーベットです。これも酸味が強く、あまり得意ではありません。できればアイスクリームにして欲しいものです。
 昼食を終えてイムデイーナに向かいます。この町は、マルタ島中央部にあり、かつては首都だったそうです。中世の狭い静かな通りを持つ城塞都市であり、「静寂の町」の異名を持つとか。面積は0.9平方kmと小さく、住民も300人弱だと云います。
 イムディーナの痕跡は、紀元前4000年以前に遡るとか。紀元前700年頃にフェニキア人によって初めて要塞化されたと云います。60年に使徒パウロは、乗っていた船がマルタで難破した後にイムディーナで暮らしたと伝えられます。11世紀初頭、ノルマン人がマルタを征服しました。1565年のオスマン軍相手のマルタ包囲戦では、聖ヨハネ騎士団が最後まで重要な要塞であったイムディーナを守り抜いています。

■イムデイーナ

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 イムデイーナには貴族はじめ多くの人々が住んでいました。その後、首都の移動に伴いこの町は「静寂の町」と呼ばれるようになったとか。中世の趣を色濃く残す古都イムディーナは、一歩路地に入ればひっそりと静まり返り、その名の通り、「静寂の町」が広がっています。カフェ、教会、貴族の館、眺望が楽しめる広場などを散策しながら中世の雰囲気に浸れます。町の外はラバトと呼ばれるエリアであり、活気あふれる庶民的な生活が覗えます。路地に軒を連ねるレストランやカフェは地元マルタ人の一押しする隠れた名店もあるとか。町の地下には巨大な地下墳墓が広がっていて、聖パウロのカタコンベと聖アガタの地下墳墓は見学できると云います。また聖パウロがローマに向かう際に船が難破し、マルタに漂着した際に避難、布教に使われたと言われている聖パウロの洞窟は聖パウロの教会の礼拝堂から地下に降りて行った先にあるそうです。
 イムディーナに通じるゲートは3つあります。中でもひときわ目立つ門がメインゲートです。メインゲートは1724年、当時の騎士団長マノエル・ド・ヴィレーナによって建設されました。それ以前はイムディーナに入るには跳ね橋が利用されていましたが、現在ではその跳ね橋は門の右側の壁に埋め込まれています。門にはヴィレーナ家の紋章であるライオンが戦いの戦利品を運ぶ様子の装飾が施されています。ゲートの内側にはマルタの守護聖人、聖パウロ、聖パプリウスそして聖アガタが彫られています。
 聖パウロ大聖堂は、町の中心的建造物です。伝説では、マルタ最初の司祭と云われる聖パブリウスの家の跡地に、聖母に捧げるため建築されたマルタで最初の聖堂だと云います。聖パブリウスは、4世紀に聖パウロの祈りにより、病の床に伏した父を救われた事からキリスト教に改宗したとか。
 大聖堂は9世紀イスラム教支配下の時代に破壊されました。その後、13世紀ノルマン人支配下の時代に聖パウロに捧げる大聖堂として再建されたと云われます。その後も何度か修復、拡張が繰りかえされましたが、1693年の大地震で聖具室と内陣席を除きほぼ全壊。現在の大聖堂は1702年にマルタの建築家ロレンツォ・ガファによって再建されたものです。教会内部はヴァレッタの聖ヨハネ大聖堂に比べると規模も小さく華やかな装飾が施されているわけではありませんが、荘厳な気持ちになる空間が広がっていると云います。マルタ騎士団の一員であり、聖ヨハネ大聖堂の天井画の作者でもあったカラヴァッジォ派の画家、マティア・プレッティの作品が贅沢にも5点展示されているそうです。
 ジュンコ曰く「イスラムがやって来たのは870年」だとか。「アラブ人が造った町」だと云います。全盛時には貴族と僧侶中心に700人ほどが住んでいたとか。現在の人口は300人くらいと云うことは先にも触れました。
 メインゲート内側の3聖人の浮彫の中央は聖パウロです。左手に毒蛇が見えます。聖アガタは右側です。左手に乳房が彫られています。宗教的迫害では女性の乳房を切除する拷問があったとか。聖アガタは今では乳癌の守護神だとか。昨今、乳癌予防の乳房切除が話題になっていますが、聖アガタは何を思うでしょう。

■イムデイーナ2

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 聖パウロ大聖堂に入場しました。内部はハニーカラーの外観とは異なり、金銀の装飾と赤の大理石を基調とした壁に囲まれています。天井にはフレスコ画が描かれていることは前にも触れました。中でも大地震で損害を受けなかった「聖パウロの難破」は傑作と評判です。
 堡塁広場は山のないマルタでは貴重な、小高い場所から眼下の眺めを楽しめるポイントです。広場は眺望を楽しむ観光客で賑わっています。晴れている時には遠くに地中海とヴァレッタが、雨期には一面に広がる緑が、そしてフェスタの時期には各市町村であがる花火を楽しむ事が出来るとか。近くにはテラスから眼下が一望できる、ケーキの美味しいと評判のカフェもあり、歩き疲れた時に足を休めるのにお勧めのポイントだと云います。
 聖パブリウスは聖パウロがマルタにやって来た当時の為政者だったと云います。聖パウロは彼の父親の病を癒したり様々な奇跡を演じて布教に努めたと云います。
 大聖堂の床は大理石ですが、その下は墓になっています。ジュンコの話では、「他の場所では盗掘される」のだとか。司教や貴族の墓がたくさんあります。大理石の床には誰の墓か目印が付いています。大司教の墓の上には帽子と十字、それに房が4つのマークがされています。マルタには家毎に紋章があるそうです。日本の家紋のようなものでしょうか。貴族の墓には、その家の紋章が大理石の床に描かれています。
 祭壇の両脇にはパウロとペテロのイコンが飾られています。ペテロはバチカンのサンピエトロ寺院を建立した12使徒の一人です。パウロは「目から鱗」の逸話が有名です。彼は実際にはイエスに会ったことはないと云われています。
 「目から鱗」の逸話は新約聖書にあるそうです。曰く「キリスト教を迫害していたサウロの目が見えなくなったとき、イエス・キリストがキリスト教徒に語りかけ、サウロを助けるようにとキリスト教徒のアナニヤに指示した。
 アナニヤがサウロの上に手を置くと、サウロは目が見えるようになり、このときサウロは『目から鱗のようなものが落ちた』と言っている」。
 イムデイーナの町には数多の観光馬車が走っています。もちろん、車も走っています。我々の脇を一台の車が走り抜けます。日本製でしょうか。トヨタカローラのような感じです。運転しているのは修道女です。ジュンコ曰く「ベネデイクト修道会」だとか。この修道会は戒律の厳しいことで有名です。一度入ったら、めったなことでは外に出られないそうです。修道院に出入りできる男性は医者だけだと云います。
ジュンコに因れば「マルタの修道女は年寄りばかり。50代が一番若いほう。修道士には若い男性もいる。マルタ以外のヨーロッパ人の修道女なら若い子もいる」とか。
 イムデイーナ観光後は銘々、メインゲートの外側に集合です。あいかわらず観光馬車が客待ちでたくさん停まっています。全員集合後、二手に分かれます。昼食時のくじ引きで決めたハイポジウム見学組とホテル直行組です。ハイポジウム組にはジュンコ、ホテル組にはモモが付き添って、それぞれのバスに乗込みました。

■夕食

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 ホテル着は15;50くらいだったでしょうか。モモが「ご希望の方は散策にご案内します」と言うので僕も参加することにしました。一旦、部屋に戻って16:05ロビー集合です。
 モモの案内でホテルの前の道を左に上がって行きます。暫く行くと左側にスーパーマーケットがありました。ここに入って土産になりそうなワインや菓子等を物色します。スーパーへの途次、イタリア料理の看板も散見されます。モモ曰く「必ずしも美味くない」とか。スーパーで買い物する向きもあるので、彼等を残してスピノラ湾方面に向かいます。
 豪華なクルーザー等が繋留されている埠頭を囲むように、これも豪華な高層住宅が建っています。この入口付近に何軒かレストランがあります。地中海料理やイタリアン、マルタ料理等々です。日本料理の店もありましたが、看板は中国人女性が描かれています。尤もマルタ人にとっては日本人も中国人も区別がつかないのかも知れません。
 帰路、モモが「こっちが近道」といった方面は通行止めでした。仕方なく元来た道を戻ってスピラノ湾の浜辺沿いの道を歩いてホテルに戻りました。
 ホテルには屋内プールがあると云うので、モモがフロントに確認してくれて一緒に現場確認に行きました。朝方、朝食の際に探したのですが、見つかりませんでした。案の定と云うか、屋内プールは僕が探したエリアとは反対側でした。アスレテイックスペースの奥にある屋内プールは小さなものでファミリーで子供を遊ばせる程度の代物でした。案内してくれたモモには申し訳ありませが、これは謝絶です。
 ホテルにはカジノが併設されています。一緒に散策から戻った若手のご夫婦が興味があるようで、モモに詳しく確認されていました。僕達が部屋に戻っているうちにハイポジウム組も帰着したようです。帰路に事故渋滞で難渋したとか。
 夕食は19時集合なので、まだ間があります。シャワーを浴びてスッキリしたところで持参の日本酒を呑みました。肴はアタリメとジャガビーです。日本酒は1合紙パックを2本消費しました。酒を呑みながらジュンコのガイドで「6月29日はペテロ+パウロの聖人の日」だと聞いた記憶が脈絡なく蘇りました。まあ、キリスト教では毎日が誰かの聖人の日ではあります。
 19時、ロビーに下りました。全員集合したところでバスに乗込み今宵のレストランに向かいます。お店は「Barracuda」です。この店名は「カマス」という魚の意味だとか。カマスはスズキの仲間の白身魚ですね。あまり刺身で食べることはありませんが、干物や塩焼き等が定番でしょうか。
 なかなかの人気店らしく店内は活況でした。メニューは事前にバスの中でモモからメニューを渡されメインをセレクトしていました。銘々、メニューの番号をモモに告げました。モモが注文取ってスタッフに伝達します。
 早くビールが呑みたいのですが、料理の注文が済むまでドリンクの注文が出来ません。暫く待って漸くドリンクとなりました。大阪ご夫婦はワインリスト要求してました。カジノ夫婦は白ボトル、大阪夫婦は赤ボトルを注文しました。

■夕食2

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 僕は生ビールを頂きました。グラスとジョッキがあるようなので「Paint of Beer」と言ったのですが、モモには通じなかったようです。「ビールの大」ということで落着です。
 暫くして料理が出て来ましたが、ドリンクがまだです。これもマルタ時間でしょうか。日本人はとかくせっかちでいけません。隣席は尾道ご夫婦です。彼等と四方山話で待ちました。僕のビールは最後でした。モモがサイズを間違った?
 前菜は「芋と蛸と野菜」です。メニューでは「温かい蛸とポテトのサラダ」となっています。呑みながら野菜だけ食べていたら、下げられてしまいました。
 メインは「烏賊、海老、魚のフライ」です。まあ、「魚介のフライ盛り合わせ」です。日本の様な衣のついたフライではありません。たぶん、オリーブオイル等で炒めたような塩梅でしょうか。烏賊と魚を少し頂きました。海老は遠慮しました。魚はスズキ等の白身魚でしょうか。
 最後にデザートが欠品のトラブルです。僕は即座に「不要宣言」しました。18人もいると添乗のモモは大変です。皆、口々に「こんな多いの初めて」と言います。中にはG社専門の方もいらっしゃいましたが・・・。
 食後、ドリンクの精算です。生ビール+マルタワインで10ユーロです。モモが最初「マルタワインはボトルしかない」と言っていたのですが、グラスもあると云うので白を注文しました。これは、結構美味しかったように思います。
 モモが10ユーロ徴収に来ないので、レジ近くにいた彼女に差出すと「頂いてませんでした?」。やはり18人は大変です。
 手元にマルタとゴゾの簡単な地図があります。ホテル到着時にもらったやつでしょうか。熱帯魚のような形をしたマルタ島が薄く黄色みがかったグリーンで描かれています。観光地の位置関係も分り易く表示されています。
 マルタ国際空港は島の南東端に位置します。更にその南にブルーグロットやハジャールイム神殿、ムナイドラ神殿があります。空港の東側がマルサシュロックです。ここは、ブルーグロットの帰路に訪れたマルタ最大の漁港です。
 島の中央、西側にラバト、イムデイーナ、モスタ等が位置します。ラバトはイムデイーナの城塞の外に広がる町です。モスタは、「モスタドーム」で有名です。パンテオンをイメージしてデザインされ、世界第三位の大きさを誇るとか。
 モスタと云う街の名はアラビア語(セム語)の「ムスタ」に由来するそうです。「真ん中」とか「内側」とか云う意味だとか。マルタの真ん中にあるからそう呼ばれたとも云います。現在の街が興ったのは、17世紀初頭で、騎士団の時代に発展につぐ発展を続けて、現在のような大きな街になったそうです。街として発展したのは近世以降ですが、古代より、人が好んで住んでいたようです。周囲から色々な遺跡や遺物が、今も発見され続けていると云います。
 モスタの東に平行移動していくと、フロリアーナに当たります。ヴァレッタ郊外です。

■マルタ散歩

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 フロリアーナはヴァレッタと港の防御を共有しています。ヴァレッタへの主な進入路上のポーティス・デ・ボムベまで延びる、首都の陸地寄りの防備の中にあります。町の名は、1636年にヴァレッタの要塞の拡張を騎士団から命じられた、17世紀の軍事エンジニアのピエトロ・フロリアーニにちなんで名付けられたとか。
 フロリアーナは、最初から要塞都市として考案されたと云います。町は、オープンスペース、ガーデンや一部の立派な貴族の邸宅が特徴です。ハイライトは、グラナリース・スクエアを見下ろすエレガントなセント・プーブリウス教会やセント・フィリップ要塞のアルゴッティ・ガーデンだとか。広大な敷石のあるグラナリース・スクエアには、戦時にヴァレッタへの食物供給を確実にするために17世紀後期に建設されたいくつかの深いサイロが隠されています。
 他に興味深いのがモールです。現在はガーデンですが、かつては騎士達がここで一種のテニスを楽しんだのだとか。この狭い緑樹帯には、マルタの20世紀の歴史の出来事や人物を記念する像や碑が点在しているそうです。
 フロリアーナの更に東側にヴィットリオーザがあります。ヴィットリオーザ、あるいはビルグとも呼ばれます。スリーシティーズの一つであり、ヴァレッタの対岸で、グランド港に突出している岬のひとつにあります。
 その先端に、おそらく島で最も古い城塞である、聖アンジェロ砦があります。数千年にわたる砦と都市の両方の戦略的な位置は、この地域を「マルタの歴史の揺りかご」と呼ばせました。確かに、フェニキア人から英国人まで、全ての移民や統治者は、ここの防衛力を活用しました。ビルグの町が演じた役割を称えるために、団長ラ・ヴァレットは、Civitas Vittoriosa(勝利を得た町)と名前を変えました。
 騎士団が1530年に到着したとき、彼等の最初の住まいがヴィットリオーザでした。そのため、多くの重要な建築上の富を持ちます。ここの騎士の「オーベルジュ」(居住の宿)、邸宅や教会などはヴァレッタのものより古いと云います。
 マルタの最も著名なバロック建築家ロレンツォ・ガッフォによって設計されたサン・ローレンツ教会、宗教裁判所、聖アンジェロ砦や海事博物館等が見どころと云われます。
 ヴィットリーオーザの北西が首都ヴァレッタです。その北にセントジュリアン、スリーマが位置します。セントジュリアンは僕達の泊まるホテルがある場所です。宿泊先がドラゴナーラであることは先に触れました。ホテルにカジノがあることも書きました。ドラゴナーラ カジノは、初回入場時にパスポートが必用で、メンバーズカードを作成するのだとか。2回目以降はそのカードで入場することができるそうです。ドレスコードにはそれほどうるさくはなく、客層は日本のゲームセンター程度だと云います。支払いは基本現金のみだとか。カジノ夫妻等の話では、日本のパチンコ店のような感じだとか。
 ヴァレッタの北西隣に広がるスリーマは、ヴァレッタと並ぶショッピングの街。海沿いに5kmにわたってタワーロードが続きます。
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