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Channel: 私の高橋真梨子論
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■ヴァレッタ近郊

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 スリーマ地区には現在、アパートも多いと云いますが、ジュンコ曰く「ハイグレード」だとか。ただ、ジュンコもこの町に住んでいるそうです。スリーマの中心街にはショッピングモールがあり、港には数多のクルーズ船が繋留されています。
 スリーマやヴァレッタなど、マルタの都市部の古い家に良く見られるスタイルの出窓。かつては監視窓の役割もあり、今でもロープを使って荷物を上げ下ろしする光景が見られるとか。海辺から一歩内陸に足を踏み入れれば、そこは古くからの住宅地。狭い道路の両側に、住宅や小商店が並んでいます。かつては、騎士団の宿舎等も点在したのでしょう。
 聖ヨハネ騎士団はヨーロッパ貴族の子弟であることが入団資格でした。騎士団は国別に八つのグループがあり、これを騎士団長が統率していました。オスマントルコ相手のロードス攻防戦に敗れ8年間地中海を彷徨った果てに1530年、スペイン王カルロス五世からマルタを借り受けました。
 ヴィットリオーザはセングレア、コスピークワという街を加えてよくスリーシティーズと呼ばれています。ヴィットリオーザはグランハーバーに面しています。先端には聖アンジェロ砦があります。元々はアラブの見張塔として870年頃に造られたとか。当時は北アフリカを根城とするアラブの海賊が地中海を跋扈していました。マルタの島民も、一刻も早く海賊の来襲を察知するために見張塔を造ったのでしょう。島民が海賊に抗する術はなく、海賊がやって来たら即座に内陸に避難するしかありませんでした。こうした見張塔は今も地中海沿岸各地に遺っていると云います。
 1565年、マルタにもオスマントルコ4万の兵が押し寄せます。これに抗するマルタ側の兵は9000人だったとか。ジュンコの語るところに因れば、「騎士400人+傭兵」だとか。オスマン軍は5月に上陸して、戦は9月に終戦を迎えます。4か月にわたる攻防戦の末、オスマン軍が撤退します。ロードスでは敗れた騎士団ですが、今回は雪辱します。マルタを守り抜いたのです。その陰にはシチリアからの援軍5千の兵の力もあったかも知れません。この対オスマン戦勝利は当時のカトリック教徒にとってはレパントの海戦と並んで大いに勇気づけられる出来事だったと云います。
 ちなみに、この勝利により騎士団には多くの寄付が集まったとか。それを財源にヴァレッタの町や城が造られたのでしょうか。ともかく騎士団長の名を冠した町、ヴァレッタの誕生はオルマントルコを退けた証かも知れません。
 「イムシーナ」?。ジュンコの言葉が僕にはそう聞こえたのですが、確認出来ません。ジュンコ曰く「ヨットマリーナ」だとか。様々なヨットが繋留されています。マルタ最大のマリーナだとか。外国人所有の船が多いようです。
 マリーナの管理はマルタ海軍管轄だとか。マルタは小国ですが、軍隊を持っています。世界にはアイスランドやリヒテンシュタイン等々軍隊を持たぬ小国も少なくありません。しかし、マルタは2000名の海軍を常備しているとか。主な任務は海上警備で、現在はアフリカ難民を警戒していると云います。徴兵制度は無いそうです。

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